旧統一教会への解散命令をどう見るか(2)

法の公正に反する解散命令
他の多くの宗教団体にも解散事由が成り立つことに

元武蔵野女子大学教授 杉原誠四郎

 はじめに
 

 去る3月25日、東京地裁が、宗教法人「世界平和統一家庭連合」(旧統一教会)(以下、「家庭連合」という)に下した解散命令は、宗教法人法の主旨をあまりにも蔑ろにし、あまりにも杜撰な命令であったかについて、以下解説したい。そしてそれが他の宗教団体にも懸念が及び、法治国家としての我が国にあっては、あってはならない命令であるかを解説したい。

 

 憲法違反に及ぶ手続き

 宗教法人の解散について、宗教法人法第81条第1項において「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと」とある。この条文に「著しく」とか「明らかに」という文言を見ただけでも、宗教法人法は解散命令を安易に出してはならないことを含意していることが分かる。これは本法の制定過程を見てもすぐわかることで、国家権力の介入を避け宗教法人の自主性を尊重しようとしたためにこのような条文になったのである。

 そのために監督官庁である文部科学大臣の単独な判断に拠るものではなく、先ずは宗教法人審議会の審議にかけて、その上でさらに司法機関たる裁判所で適否を確認して、裁判所から解散命令を出すという手続きを採っているのである。

 ところで裁判所での扱いは非訟事件として扱うもので、これは司法機関による一種の行政行為である。それゆえに、非公開で審理が行われ、命令の決定が行われてもよいのである。

 とすれば、一宗教法人の死刑に当たる解散命令が、憲法第32条及び第82条の公開の裁判が行われないままに行われることになる。これは明らかに憲法違反の手続きであり、国際法的にも許されない暴挙となる。

 このことから逆算していえば、解散命令が出せるのは、宗教法人が犯罪行為などを行って公開の裁判を受けて刑が確定し解散事由が誰の目にも明瞭である時であり、そのことを前提に文科大臣が宗教法人審議会に諮り、その解散命令の申請を裁判所にし、裁判所がその解散事由の成り立つことを確認して、解散命令を出すということなのだ。

 民事の場合で言うと、民事裁判で何度も違法行為だと判断する確定判決が続き、その上で宗教法人の監督官庁である文科大臣が是正を勧告し、にもかかわらず、民事裁判がなくならず、違法行為だとする判決が続くとき、そのような判決を根拠に文科省は解散命令の申請を裁判所に行うことはできる、というものでなければならないのだ。

 そのような裁判の判決がある場合のみ、裁判所は非訟事件として非公開の審理をし、解散を可として解散命令を発することができるということになる。

 結局、今回の文科省が、被害者と名乗る人の被害届を集めてそれを解散事由として東京地裁に提出し、東京地裁はそれを判断資料として審理し、解散命令の決定をなしたという手続きは、宗教法人法の最初から前提としていない憲法違反に及ぶ手続きだったということになる。

 裁判の公開の原則は、国民の直接の監視によって裁判の公正を担保しようというものである。にもかかわらず、法人にとっては死刑に相当する解散命令が公開の裁判を経ないで出されるということが国際的に知られれば、国際的にも必ず非難が押し寄せてくるであろう。

 

 不法行為として成り立つか

 民法における事件も宗教法人の解散事由になることは上記のとおりだが、民法の事件とは、法的にいえば「不法行為」の問題だ。

 「不法行為」というのは民法第709条に基づくものだが、民事生活にあって、全ての違法行為を予め条文化しておくことはできないから、民事生活で損害が生じたとき、損害を受けた側が加害者の側に損害の賠償を求めたとき、初めて不法行為という違法行為があったことになる。

 今回、文科省が解散事由として集めたのは、被害者と名乗る人たちの被害の陳述である。

 が、被害者と名乗る人の被害の陳述だけでは不法行為は成立しない。その陳述内容が正しい内容なのか、そして被害として認定できるものなのか、それらが明確となって初めて不法行為となる。

 が、今回の文科省が集めた被害届は、本来検証能力を持たない文科省が集めただけあって、不法行為として成り立つか検証されておらず、さらには虚偽の申告が多数含まれていることがすでに判明している。

 例えば、月刊誌Hanadaの本年4月号に載った福田ますみ氏の「文科省の犯罪『統一教会陳述書』捏造の全貌」で見るとよいが、中には本人は返金を求めていないのに息子によって陳述書が創作されて提出した例など、あまりにもでたらめのものが多数含まれている。

 信仰者は信仰している時期に行った献金は、信仰を失い棄教した時点になって棄教した理由で返還を求めることはできないという大原則を踏まえれば、文科省の集めた陳述書には不法行為として扱えないものがもっとあると考えられる。

 しかるに文科省より解散命令の申請を受けた東京地裁は、文科省の提出した陳述書に何の検証もせず、簡単にいえばこれら全ての被害届の被害額と人数を合算して、被害者は1560人弱、被害額は204億円超として解散命令の決定をしたのである。

 その際、裁判の判決を通じて決まった賠償額は該当させてよいが、裁判を通じて合意して支払った賠償額を含み、さらに裁判を通さない示談で解決した賠償額も含めた。が、そればかりではなく「顕在化していない被害」も否定されないと言って、顕在化していないものまで含めて判事は被害の極大化を図ろうとしているのである。まさに宗教法人法の「著しく」とか「明らかに」に反しているのだ。

 裁判で和解した場合、問題にすべき不法行為であるとするかどうかは考え方によるが、示談で解決したものは、それによって不法行為関係は解消したともいえるのであるから、これも被害の中に入れるのは不当といってよいのである。いわんや、顕在化していない被害ということで被害規模を大きくしようと図ることは問題であろう。これで公正な非訟事件の審理といえようか。始めから解散ありきの一方的判断の下で行われた偏見に満ちた法の公正に反する解散命令決定であったといえる。

 

 解散は現在の事由でなすべき

 被害者や被害額の算定に上記のような問題があるだけではない。家庭連合は昭和29年に韓国で誕生し、その後日本でも布教が始まり、昭和39年に宗教法人「世界基督教統一神霊協会」として法人化したのであり、平成27年に現在の「世界平和統一家庭連合」と改称し現在に至っている。

 そこで文科省は、家庭連合にあって、昭和55年ごろから令和5年ごろまでの約43年間にわたり、被害者1560人弱、被害額204億円超あったとして解散命令を申請し、東京地裁はその被害者数、被害額をそのまま認めたのである。

 が、ここで不法行為の法的性格を見ておかなければならない。民法第724条によれば、不法行為は、行為時点より20年経つと、賠償を求めることはできなくなり、法的には不法行為は時効として消滅するといえるのである。違法状態を法的にいつまでもそのままにしていることは安定した法生活にかえって有害であるということで、違法状態であっても長く放置したままになっておれば、違法状態の消滅と見なすということで、法治主義としての大きな原則の一つだ。

 上記の、文科省が提出し東京地裁が認めた不法行為に関する被害者数と被害額はこの時効のことを全く無視している。もし、こうした不法行為をどこまでも遡及して解散命令を出すことができるのであれば、日本でどれだけの宗教法人が解散命令の対象になるであろうか。

 宗教法人の解散はあくまでも現在の問題として現在の事由に基づいてなされるべきではないか。でなければ、そのような不法行為の多発した過去を持った宗教法人は、どんなに努力してもいつまでも解散事由を持つことになり、解散させられる恐れを将来ずっと持ち続けることになる。

 家庭連合の場合、平成21年、コンプライアンス宣言というのを行って、献金勧誘の際に、因縁等に結びつけた勧誘をしないようにとか、信者の経済状態に比して過度な献金とならないようにとか、社会的な批判を受けるような献金勧誘は行わないように、教団内に指示を出しているのである。こうして家庭連合は平成22年以降は裁判で不法行為として認定されたものは1件しか引き起こしていないのである。不法行為は激減しているといえ、したがって現時点では、家庭連合は解散事由を原則的に抱えていないといえるのである。

 にもかかわらず、東京地裁は「類例のない甚大な被害を生じさせ、現在においても、同種類似の被害を生じさせるおそれがある状況がなお看過できない程度に残存しているところ、利害関係参加人(「家庭連合」のこと)に事態の改善を図ることを期待するのは困難というべきである」と言って、解散命令の決定を下したのである。

 家庭連合がコンプライアンス宣言を行った以降の状況を見れば、「同種類似の被害を生じさせるおそれがある状況がなお看過できない程度に残存している」と言うのは根拠のない明らかに言いがかりである。「看過できない程度に」とはまさに主観によるもの言いである。東京地裁は家庭連合について「本件問題状況に対する根本的な対策を講ずる契機及び機会を有しながら、…根本的な対策を講じておらず」とも言っているが、いきなり調査をして調査によって判明した水準より、より高い水準を突きつけて問題状況が残存していると言うのである。言うのであるならば、達成すべき水準を事前に示して、そこまで達成するよう指導し、その上で期待する水準を達成していないと言うべきであろう。いきなり調査をして問題状況が残存していると言って解散命令を出すことができるのであれば、原則的には全ての宗教法人を解散させることができるではないか。

 

 宗教的結社としての宗教法人

 当該解散命令決定では、宗教法人に対する捉え方にも問題があった。この決定では「宗教法人の解散命令制度は、飽くまで、法律によって与えられた法人格につき、それを与えたままにしておくことが不適切となった場合のその法人格を失わせるとの法的効果を有するものにとどまり、当該法人格の喪失により事実上生ずる影響は、当該法人格を有していたことから伴う反射的利益に対するものである」と述べている。宗教法人は信仰の自由に基づく宗教的結社の自由を実体化したものであり、結成の効果は、結成の反射的効果にとどまるものというのは間違いである。信仰する信者にとっては、法人格を失うということは、信者にとって自由に信仰生活を送る環境が奪われるということであり、それは単なる反射的効果といえるものではない。

 ただ、法人格を失って法人の財産を奪われるとしても、民事執行法第131条の規定により、礼拝施設は依然として信仰集団に温存されるのではないかと考えられる。法人幹部の引き起こした刑事事件はなく、原則的に全て不法行為によった解散命令であるから、事実上継続して存在する信仰団体に対して礼拝施設まで奪うことはできないと思われる。当該決定では、必ずしもそのようには読み取れないが、そのように解釈していくべきだから、家庭連合がもし将来本当に解散となったら、その時はそのように追求していくべきである。奇しくも、この決定でも、最高裁の決定を元にして「解散命令は、それ自体は信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わないものである」と述べている。

 

 少なかった慎重論

 本年3月26日付け『毎日新聞』で、恵泉女学園大学の斉藤小百合教授が解散命令は宗教法人に対する死刑宣告に相当するものなのに、今回の家庭連合の解散問題では慎重論が少なかったと懸念を示している。平成7年のオウム真理教の際の解散命令においてさえ一定の慎重論があったのに今回はないという指摘である。信教の自由、信仰の自由を考えたとき、少数派の宗教団体も共同社会で存続していくことを前提に現在の政教分離ができているのに、安易にこぞって解散命令に賛同していったのは遺憾だということだ。令和4年の銃撃事件で一気に流れが変わり、「政治的な理由に左右されたご都合主義」だったのだ。

 そうした政治的な理由で始まった対家庭連合バッシングに、冷静であるべき裁判所もその流れに呑みこまれたことになるのだが、これは担当する裁判官に力量がなかったからだというより他はない。

 同じく3月26日付け『世界日報』で、創価学会は解散請求への賛否について「回答は控える」とした上で「信教の自由を厳守する観点から、宗教に対する公権力の行使は慎重であるべきだ」との考えを示したという。

 東京地裁によって、かくも明らかに憲法違反につながる手続きによって進み、そしてその手続きの下で、検証のない陳述書を根拠にして、他の多くの宗教団体にも解散事由が成り立つような解散命令決定が行われた。創価学会は、事実上学会が主体となって公明党という政治団体を結成している。我が国の宗教史上としても重大な汚点となる今回の東京地裁の解散命令決定には、公明党は沈黙をせず、何らかの積極的行動をなすべき責任があると思われる。


 すぎはら・せいしろう 1941年広島県生まれ、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。城西大学教授、武蔵野女子大学教授を歴任。現在、国際歴史論戦研究所会長。著書に『新教育基本法の意義と本質』『日本の神道・仏教と政教分離—そして宗教教育』『理想の政教分離規定と憲法改正』他。