旧統一教会への解散命令をどう見るか(1)
民主主義のコスト
神道国際学会理事長 三宅善信

3月25日、東京地方裁判所は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対して、解散命令を出した。この問題をどう見るか。二人の識者に聞いた。
宗教法人法への認識不足
今回の東京地裁の判断に対して、「公権力の行使」と「マスコミ報道のあり方」という二つの点から問題を指摘したい。
一つ目は「公権力の行使」のあり方についてである。一般に「宗教法人の解散」とは、当該法人の意思によって任意に解散したり、他法人への吸収合併を行うことを想定しており、所轄庁による認証の取り消しや強制を伴う裁判所による解散命令は非常の手段であって、当然のことだが宗教法人法に基づいて慎重に議論され、判断されなければならない。しかし、「消費者契約法」を援用して実質的に旧統一教会を対象(ターゲット)にして令和4年12月に成立した「法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律」には、宗教法人の行為を裁く客観的な基準が存在しない。しかも旧統一教会の場合、刑事事件による解散命令ではない。本件に関しては「結論ありき」でものごとが進んでいるという印象だ。
また、「宗教法人格は解散させられても任意団体として宗教活動はできるので、信教の自由の侵害には当たらない」といった言説が、度々登場している。これは宗教法人法の理念に対するはなはだしい認識不足である。
忘れてはならないのは、人類にとって普遍的な基本的人権の一つである「信教の自由」とは、自らの意思で宗教を選択することができ、しかもその信仰を実践できるということだ。信教の自由には布教行為も含まれるが、宗教法人の解散命令は事実上、布教行為をできなくする。これは世界基準から見たら許容されない判断である。
宗教活動を妨げる
宗教法人法の第一条第一項には「この法律は、宗教法人が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。」とある。
その宗教法人に雇用されている職員への源泉徴収を含む給与の支払いや社会保険業務、銀行口座の開設、集会を開くために施設を借りることなど、どれも法人格がなければできないことであって、「宗教法人を解散させても信教の自由は妨げていない」という東京地裁やマスコミの主張は、旧統一教会が宗教活動を維持していくために必要なことをできなくさせるという意味でも、「信教の自由」に対する事実上の侵害だと言える。
今回の判決をもって、「信教の自由も思想信条の自由も認めている。憲法に違反していない」というのは、全体主義国家の言い方である。中国共産党も「信教の自由を認めている」と言っているが、実際にはチベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒は大変な迫害を受けている。
近代法治国家として逸脱した行為
さらに言えば、宗教法人格はその宗教の教義を考慮して認可されるわけではない。私は旧統一教会の教義が正しいとは微塵も思っていない。私にとって正しいのは金光教の教えである。だからといって、旧統一教会あるいは他の宗教をなくせばいいというのではなく、彼らの教え自体は尊重しなければならない。仮に問題の多い団体であっても、目に余る法令違反がない限りは解散させることはできない。
こうしたことは、「いかがなものか」と思わせるような主張しかしていない泡沫議員で構成される少数政党にも億単位の政党助成金が国庫から支給されているのと同様に、日本の民主主義を維持するために必要な「コスト」だと思っている。
また、今回の判断は過去の事件に遡って下されたものである。もちろん、何らかの法令違反があれば、罰が下される。しかし、旧統一教会は2009年に「コンプライアンス宣言」をしており、そこから訴訟などは減ってきている。それを数十年前の事件に遡って罰するということは、「罪刑不遡及の原則」に反している。前述の法律施行後の違法行為はこの法律で裁くことができるが、法律の成立以前に遡って裁くことができないというのは法治主義として当然である。それを裁くということは、近代法治国家として逸脱した行為であろう。
他の宗教も叩かれる可能性
二つ目は、マスコミの論調の偏重である。今回の東京地裁による解散命令についてワイドショーに出演していたタレントが、「安倍元首相を銃撃した容疑者が事件を起こしてくれたおかげで、われわれが忘れかけていた旧統一教会の問題を呼び起こしてくれた」という意味のことを発言したのである。この放送を視て、私は驚いた。これは、選挙遊説中の元首相に対するテロ行為であって、殺人事件である。それ以上でもそれ以下でもない。にもかかわらず、このような暴論を公共の電波で垂れ流すのは、明らかに放送法違反であって、当該放送局の免許を取り消しても良いぐらいの事案である。
ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相(当時)は、2019年に同国のモスクで銃乱射事件が起きた際、「テロリストに対しては何も与えない、名前も口にしない」と述べた。テロリストは事件を起こして世間の注目を集めることで目的を達成しようとする。ゆえに、テロリストの主張を報じてはならないのである。テロリストへの対応は世界と日本では真逆であると言わざるを得ない。
また、テレビのコメンテーターも旧統一教会に批判的な意見を持つ人ばかりで、それに対して逆の意見はほとんど出てこない。メディアの公平性という点で問題がある。こうした点を考えれば、いつ他の宗教がスケープゴートにされるか分からない。いったん否定されたら、徹底的に叩かれ、反論の機会すら与えられないという風潮が、日本のメディアの中にある。
日本の民主主義の試金石
先進国・途上国を問わず、社会主義国家を除く世界中の多くの国々では、日本とは違って宗教をより尊重している。このままでは早晩、日本社会が行き詰まることになると思う。今回の問題は、日本の民主主義の試金石と言えよう。
みやけ・よしのぶ 1958年大阪市生まれ。神道国際学会理事長。日本国際連合協会関西本部理事長。金光教春日丘教会長。同志社大学大学院神学研究科博士前期課程修了、神学修士(組織神学専攻)。ハーバード大学世界宗教研究所研究員、G20諸宗教フォーラム2019(京都)運営委員長、(公財)WCRP日本委員会理事、大阪ユネスコ協会理事等を務める。著書に『風邪見鶏:人類はいかに伝染病と向き合ってきたか』『イスラム国とニッポン国:国家とは何か』他。