家康によるキリスト教政策 ②

江戸東京の宗教と文化(2)
宗教研究家 杉山正樹

神道・仏教の敵として厳しく統制

「元和の大殉教図」(作者不詳)イタリア・イエズス会 ジェス(Chiesa del Gesù)教会所蔵

 「実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴(てんけん)を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地、手足を措く所無し(伴天連はまさに神道の敵、仏法の敵。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍いとなる。むしろ命令してこれを禁止しなければ、更なる天の災いを被るであろう。日本国内のわずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所はない)」。
 慶長十七年(1612)の「岡本大八事件」を受け、家康の政治顧問であった(金地院)以心崇伝が起草した禁教令「伴天連追放之文」は、キリスト教に対する江戸幕府の基本政策となる。崇伝は臨済宗の僧侶であったが、卓越した外交事務能力が家康に評価され、幕府の法律の立案・外交を一手に引き受け江戸時代の礎を作る。後年には、禁中並公家諸法度・武家諸法度元和令・寺院法度の起草も行い、幕府の宗教統制に大きく関与し寛永寺の天海僧正と共に家康の懐刀・黒衣の宰相と異名される。
 家康が最も懸念していたのが、南蛮貿易でもたらされる弾薬の原料・硝石と鉛の輸入であった。平和国家建設を目指す家康にとって、秀吉恩顧の九州諸大名が交易で獲得する硝石と鉛の備蓄は、「元和偃武」の最大の脅威であった。キリスト教は、禁教令の発布以降取り締まりが強化され、棄教に応じなかった高山右近が国外追放処分を受けたのもこの頃である。
 家康没後の二代将軍秀忠は、キリスト教禁教政策を更に先鋭強化し弾圧を増し加えて行く。当時京都所司代であった板倉勝重は、キリスト教信者に同情的であり幕命の処断に躊躇していた。捕縛した信者を牢内に匿っていたことが、上洛中の秀忠の知るところとなり52名の信者の処刑となる(「京都の大殉教」1619年)。処刑者のうち10名は子供であった。元和八年(1622)には、「平山常陳事件」(入国が禁止されていたイエズス会宣教師が朱印船に紛れていたことが発覚)を発端として「元和の大殉教」が惹起され30人が斬首、25人が火刑となった。1624年にはスペイン船の来航が禁止され国交断絶、1635年には日本人の海外渡航と帰国が禁止される。
 元和2年(1616)、大和五条で名君と謳われていた松倉重政は、肥前へ転封となり島原の領主となった後、苛政を敷いて領民を苦しめた。島原は、キリシタン大名有馬晴信・天草種元・小西行長らの旧領地で、領民のキリスト教信仰が盛んであったことがこの背景にあった。重政は、幕府の信任を得ることに狂奔し、蓑踊り・水牢などの極刑を以て年貢の収奪を行った。また、信者の棄教のため、絶指・烙印、温泉岳の硫黄穴に突き落とすなど弾圧を加えた。

原城跡の天草四郎像

 重政急死の後、跡を継いだ嫡男の勝家は、父をも凌ぐ圧政を敷く。飢饉と凶作が重なり寛永14年(1637)、全領民が蜂起する「島原の乱」が勃発する。幕府の追討軍13万人が、天草四郎を盟主とする島原天草の全領民3万7千名を虐殺、勝家は改易の上斬首となり、生き残った僅かの信者は潜伏キリシタンとなる。1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、幕府の禁海政策(所謂鎖国)が決定づけられた。時の将軍3代家光は、弾圧を更に強化し、キリシタン告発のための報奨金制度を設ける。
 寛永十七年(1640)、幕府は直轄領にキリスト教信者の摘発を目的とする「宗門改役」を設置し転宗を強制した。従わない信者には死罪を科し摘発
に傾注、遠藤周作の小説『沈黙』の時代設定はこの頃とされる。寛文四年(1664)には、私領にも宗門改役を設置し、毎年強制的に15歳以上60歳までの男子の宗門改めを実施することが命じられた。かつての信徒で後に改宗した者の親族・子孫は、すべて「類族」として登録され、数代に渉って厳重に監視された。宗門改めに当たっては、キリスト像・マリア像を踏ませる「絵踏制度」、またすべての住人を檀那寺の統制下に置く「寺請制度」が設けられた。
 東京タワー(日本電波塔)の北面には、崇伝が江戸の居所と定めた金地院(南禅寺金地院東京分院)が位置する。元は江戸城内に置かれていたが、崇伝の死後、家光の命により増上寺隣地に移設される(伽藍は東京大空襲で焼失してしまう)。秀忠の墓所がある増上寺は、徳川家の庇護を受け隆盛を極めた檀林で、旺時には25万坪の寺領を誇る大寺院であった。明治の上知令で寺領没収、東京大空襲では国宝建造物の殆どが焼失する。かつての寺領跡に整備されたのが、芝公園・東京プリンスホテル・東京タワーであるが、ライトアップされた東京タワーの足元で幕府宗教統制の礎が築かれたのである。

(2025年3月10日付 821号)