東北キリシタン殉教の歴史

ポルトガル人神父ら広瀬川で殉教/韓国はじめ海外の巡礼者も増加

仙台キリシタン殉教碑。中央がカルヴァリオ神父

 2月は日本のクリスチャン(キリシタン)にとって「殉教の月」だ。1597年2月5日、長崎で26聖人の殉教が起こり、仙台では1624年2月18日と22日、9名のキリシタンが厳冬の広瀬川で殉教を遂げた。(市原幸彦)

 仙台城の下、広瀬川にかかる大橋のたもとに、仙台キリシタン殉教碑が立つ。1624年2月18日と22日、藩主伊達政宗の命によってポルトガル人イエズス会士ディエゴ・カルヴァリオ神父はじめ9名のキリシタンが、厳冬の広瀬川の水に沈められる拷問の末に殉教を遂げた。
 この広瀬川殉教から400年を迎えた昨年、カトリック仙台教区(教区長=ガクタン・エドガル司教)は節目の大規模な記念ミサを仙台市内の元寺小路教会で行い、続けて殉教碑で祈りを捧げた。401年目の今年は2月23日に碑前で殉教祭が行われた。
 カルヴァリオ神父(日本名=長崎悟郎衛門)は、岩手県水沢のキリシタン武士後藤寿庵の領地・見分(みわけ)を足がかりとして、東北地方から北海道にかけて熱心に宣教を続けていた。神父は1624年、迫害の嵐が近づいていることを知り、寿庵を逃亡させ、自らは、60人あまりのキリシタンが鉱山で働く岩手西部の下嵐江(しもおろしえ)に逃れた。
 しかし、2月、仙台藩の捕手らによってカルヴァリオ神父は、信徒12名とともに捕らえられる。仙台への護送中に、名乗り出た村人1名が加わった。仙台では、信徒のうち領民5名がまず火あぶりの刑にあい、次いで9名の他領民が広瀬川で殉教した。水牢で凍りはじめた水の中、カルヴァリオ神父は、信徒たちを励ましながら最後に息を引き取った。夜の8時だった。
 碑の上の3体の記念像のうち中央はカルヴァリオ神父。その左右はここでの殉教者たちの象徴としての武士と農民像だ。碑には、9名の名が記されている。苗字のある6名は武士で、その他は農民と想定されている。また、碑の横には英語とスペイン語、韓国語で殉教の歴史を記した石碑が置かれている。
 カトリック仙台教区(青森県、岩手県、宮城県、福島県)では、今年がカトリックの聖年(25年に一度)に当たることから、新たな信仰の歴史を繋いでいく年にするとして、各地に「聖年」指定巡礼所を定めた。
 弘前教会(青森県)、四ツ家教会(岩手県盛岡市)、米川教会(宮城県登米
市)、元寺小路教会、野田町教会(福島市)の5つの教会と、大籠(おおかご)殉教地(岩手県一関市)と仙台キリシタン殉教碑の7カ所だ。
 同教区では信仰のたすきを次代につなごうと、指定巡礼地にこの一年の間に出かけることを勧めている(同教区HP)。
 7カ所うち、大籠は東北最大の殉教地として知られる。製鉄業に携わったキリシタンが殉教した事実を伝える史跡(刑場跡、墓、洞窟跡など)が20カ所以上存在する。江戸時代初期に約300人、ほど近い三経塚(登米市)では江戸時代中期に約120人のキリシタンが殉教したとされる。10キロほど北にはキリシタンをかくまった長徳寺(時宗)もある。1996年、展示施設を含む殉教公園が一関市によって整備された。殉教地は山形、秋田など東北各地にもあり、コロナ終息後は海外とくにキリスト教徒の多い韓国からの巡礼者も増えているという。