家康によるキリスト教政策 ①
江戸東京の宗教と文化(1)
宗教研究家 杉山正樹
戦国から江戸幕府初期のキリスト教

江戸260年間は、世界的に見ても文化水準が高く、長く平和が続いた稀有な時代であった。この江戸年間に生まれた宗教は、庶民生活に深く根付き、文化や社会構造に大きな影響を与えた。江戸時代を舞台に日本人の暮らしや思想、価値観を支えた宗教と文化を多角的に探る。
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「人よ(14)むな(67)しい応仁の乱」で始まる戦国時代は、天正十八年(1590)の小田原征伐で終焉を迎える。同年、笠懸山の一夜城で秀吉より関八州への移封を命ぜられた家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、一世紀余に及ぶ戦乱の覇者となる。秀吉が家康に命じた関東転封の措置が、結果的に江戸東京の400年の繁栄をもたらすのである。家康は、江戸を本拠地として入府、慶長八年(1603)の江戸幕府開府がここに始まる。
時は大航海時代、1529年にスペインとポルトガルの二国間でサラゴサ条約が締結され、アジアにおける両国の植民地分界線の協定(デマルカシオン)が定められた。フランシスコ・ザビエルが、鹿児島・平戸に上陸するのはその20年後である。
大村純忠は、わが国で最初の受洗をしたキリシタン大名で、天正遣欧少年使節の派遣でも知られる。極端な原理主義を貫き、寺社の破壊、僧侶の迫害、改宗を拒んだ領民に対しては、奴隷貿易を行ったとの記録が残る。純忠の領地は南蛮貿易で活況を呈するが、彼の死の翌月、秀吉は突然「伴天連追放令」(1587)を発布する。純忠が長崎・茂木をイエズス会に寄進(後に没収・直轄領となる)していたこと、軍船を背景としたイエズス会宣教師コエリョの示威行為に警戒心を抱いたからとされる。
「伴天連追放令」以後の秀吉は、禁教奨商政策を推し進めていた。ところが、1596年のスペイン・ガレオン船サン=フェリペ号の漂着と乗組員の証言「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまずその土地の民を教化し而して後、その信徒を内応せしめ兵力をもってこれを併呑するにあり」(松田毅一『日本大百科全書』「サン・フェリペ号事件」)に激怒、翌年2月の長崎・西坂における信徒26名の処刑に至る。
幕府開府後の家康は、秀吉のキリスト教政策を概ね継承、貿易による実利を重視し宣教については黙認の形をとっていた。
当時のキリスト教信者は、国内人口の2〜4%に達し教勢はむしろ拡大していたといえよう。ところが家康のキリスト教政策は、「岡本大八事件」(1609〜1612)で転換を余儀なくされる。
慶長十七年(1612)、幕府の重臣で本多正純の家臣であったキリシタン岡本大八が家康の朱印状を偽造、肥前キリシタン大名の有馬晴信(大村純忠の甥)を使嗾(しそう)して贈収賄事件を起こしたのである。これにより大八は火刑、晴信も死罪に処された。大八は獄中で、駿府家臣団にキリスト教信者が潜伏していることを自白、これに脅威を感じた家康は禁教を決意、大八処断の翌日に直轄領の江戸・京都・駿府にキリスト教禁止令を布告した。翌年には全国に禁教令を布告し、国内のキリスト教会を焼き払う。

一方欧州では、ルターによる宗教改革でスペイン・ポルトガルのカトリック旧教とイギリス・オランダのプロテスタント新教の対立が激化していた。関ヶ原の合戦の年、オランダ商船「リーフデ号」が豊後に漂着する。「リーフデ号」は、航行の途中で嵐や疫病、スペイン・ポルトガル船の襲撃に遭遇していた。「リーフデ号」の生存者の中に船長のヤコブ・クワッケルナック、後に徳川家康に外交顧問として仕えた航海士ヤン・ヨーステン(日本名:耶揚子)、イギリス人航海士ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らがいた。また、リーフデ号に備わっていた大砲と砲員は、同年9月に勃発した関ヶ原の戦いで活躍、東軍勝利の要因となった。ヨーステンは、甲冑を改良し当世具足に仕立てるなど戦いに大いに貢献したという。
家康は、スペイン・ポルトガルの対抗措置としてオランダに貿易を許可する朱印状を交付、布教は行わず通商のみと約束させ、平戸にオランダ商館を設立した。
丸の内ビルディング(東京都千代田区)横に、オランダ王国政府から日本政府に寄贈された「リーフデ号」の彫刻が設置される。江戸に上ったヨーステンは、家康に虎12頭を献上、喜んだ家康は和田倉門外に住居を与え、外交顧問として重用し海外との交易にあたらせた。屋敷周辺は、彼の日本名「耶揚子(やようす)」にちなんで「八重洲」の地名となった。JR東京駅八重洲口・八重洲通りと中央通りの交差点付近には、日蘭修好380周年を記念して「ヤン・ヨーステン記念碑」が置かれている。これ以後、オランダが、幕府唯一の西洋国として無二の地位を確立、日蘭交流が開花して行く。
(2025年2月10日付 820号)