啓示を受けて朝鮮で伝道する
連載・信仰者の肖像(1)
増子耕一
織田楢次(1908〜1980)

聖書の言葉で人生決定
聖書の言葉は人の心を鼓舞し、かき立て、人の内部に秘めた力を爆発させる作用を持っている。不思議で、神秘的で、ドラマに満ちた書物なのだ。戦国武将、織田家の末裔であった織田楢次も、聖書の言葉によって人生が決定された人物だった。自叙伝『チゲックン』(日本基督教団出版局)を残している。
楢次は1908年に大阪で生まれ、兵庫県芦屋で育った。9人兄弟の末っ子だった。土建業の父親は芦屋の開発で産を成し、豪壮な屋敷に住み、そこは映画のロケ地として使われたこともあったという。熱心な仏教徒で財産で寺を建て、兄のひとりは福井県の永平寺で修行し、常昌院の住職となった。
楢次は11歳の時からその寺で修行を始めたが、手がつけられない腕白坊主。座禅の修行もやったが満足できず、寺を脱出した。神戸の街を歩いていた時に路傍で伝道された。ズーズー弁の牧師に導かれるまま伝道館で世話になり、涙を流して悔い改め、洗礼を受けた。1925年4月のことだった。
聖書学舎(関西聖書神学校)で2年間、学び、祈り、伝道し、やがて朝鮮伝道を決意する。そう導かれたのは当時の日本社会の階級制度ゆえで、家で働く女中さんも、街で見かける朝鮮人も不遇な境遇にあった現実に心を痛めていたからだ。祈れば祈るほど「朝鮮に行け」という啓示が来る。パウロの姿が浮かんできて「これは異邦人のためにわが選びし器なり」という声が聞こえてくる。
キリストの言葉
親族は全員反対し、援助金はなし。
1928年4月、渡航するだけの費用をもって貨物船で木浦に渡った。ふらふらとたどり着いたのが全羅南道光州の日本基督教会光州教会だった。
そこの田中義一牧師に志を語り、「朝鮮まで来て日本人だけ伝道して、どうして朝鮮人に伝道しないのですか」と問いつめ、「異邦人とともに礼拝するのが本当の教会ではないか」と訴えた。田中牧師は事情を語ってくれた。朝鮮の教会は欧米人宣教師の保護下にあり、日本の官憲は立ち入ることができず、独立運動の根拠地になっている、と。そして自分もさんざん試みたが、「伝道は不可能だ」という。
伝道は相手が感動してなされるもの。しかし朝鮮の人々から見れば「日本と朝鮮、いうならば敵と味方という緊張関係、はっきりいえば、日本は征服者、支配者であり、朝鮮人は被征服者」だという。「そうした君が朝鮮人に罪を悔い改めよといえるか。敵を愛せよといえるか…」と田中は答えた。
織田は唖然として悩んだ。父親から教えられたことは国に殉じること、君に忠を尽くすことだった。ただ、この時の織田の心をとらえたのはキリストの言葉だった。「汝ら行きてすべての民に福音を宣べ伝えよ」(マルコ福音書16章14節)。
単身で伝道
京城に行ってハングルを勉強し、朝鮮語の聖書を読めるようになると、そこから一番遠いところ、咸鏡北道の外れまで行って単身で伝道を始めたのだった。
持参したのはルターの『ガラテヤ書註解』(黒崎幸吉訳)と内村鑑三の『ロマ書の研究』。中国との国境にそって咸鏡南道から平安北道に入った。天下、恐れるものなしと説教し、かわいい坊ちゃんが来たと、行く先々の村で大歓迎された。が、やがて待ち受けていたのは警察官による逮捕と尋問、拷問だった。三度の留置所体験をした。独立運動をしているという嫌疑だった。雪駄で刑事に殴られると顔の皮膚が裂けた。だが、キリストを慕い、朝鮮への愛と伝道への情熱は衰えることがなかった。
『チゲックン』は冒険の連続で、読者を興奮に巻き込んで一気に読ませる。
(2025年1月10日付 819号)