暁の祭典、熱気の浜降祭
39基の神輿が海へ/茅ヶ崎海岸
暁の祭典・浜降祭(主催、茅ヶ崎海岸浜降祭実行委員会)が海の日の7月15日、神奈川・茅ヶ崎の南湖の浜(西浜海岸)で利根康教・寒川神社宮司を斎主に寒川町、茅ヶ崎市に鎮座する34社から39基の神輿が出御し、盛大に斎行された。全国から来た氏子崇敬者や見物客が海辺を埋め祭場は熱気に包まれた。浜降は海辺での禊を意味し、海水の霊力で心身を清め神霊の更新を図り、新たな御神威を授かる神事で、神奈川県無形民俗文化財に指定されている。
威勢のいい男衆に担がれた各神社の神輿は「どっこい、どっこい」と勇ましい掛け声を掛け合いながら竹の鳥居をくぐり抜け南湖の浜、祭場に幟と共に着御し、6時30分には、39基の神輿が揃い踏み。一列に整列し、祭典開始を待った。
7時になり、斎主・祭員が奏楽のなか入場。修祓、祓い詞奏上ののち3人の祭員が39基すべての神輿、氏子を大麻で祓い清める。次に献饌。寒川神社の神輿から始まり、全ての神輿に御神酒、海・山の幸が供えられた。引き続き斎主が祝詞を奏上。玉串奉奠に移り、斎主に続いて寒川神社第10代御旅所神主・鈴木孫七氏、寒川神社責任役員、茅ヶ崎海岸浜降祭実行委員会役員、各神社代表、佐藤光茅ヶ崎市長、木村俊雄寒川町長、河野太郎デジタル大臣、星野剛士衆議院議員、阿部知子衆議院議員らが玉串を奉って拝礼した。
祭典の後、利根宮司は「今年も多くの神社、それにかかわる皆様に御参加いただいたことに感謝したい。寒川町と茅ケ崎市、そして氏子の皆様の安全祈願を無事に終えることができた。次の浜降祭までの一年間のご健勝を心から祈る。長時間にわたりご参加いただき、お礼申し上げる」と感謝の気持ちを述べ、亀井信幸・浜降祭実行委員長は「斎主・利根宮司の祝詞奏上が行われ、暁の祭典・禊の神事が滞りなく斎行された。暁の祭典・浜降祭が無事に迎えることができたのも、寒川神社をはじめとする各神社の篤い信仰心、歴史と伝統の祭りに対する深い郷土愛、そして情熱のたまものである。この祭典が未来永劫湘南を代表する歴史的信仰遺産として、私達の心の拠り所の神事として長く受け継がれていくことを祈念する」と話した。
祭典が終わると39基の神輿は順次、再び威勢よく練り歩き、神輿が海中に入る「みそぎ」を行った。「どっこい、どっこい」という掛け声とともに、大勢の見物客が見守る中、波しぶきを浴びながら神輿は海の中へ進んでいき、その勇壮な姿を見せた。そして、その後39基の神輿は各神社へ還幸した。
浜降祭にイギリスから始めて来たというグループ客は「初めて見たが、とても良いお祭りだった。暑い中見に来てよかった」と語り、岐阜県在住のアメリカ人男性は「とても綺麗で感動した。岐阜は海がないので、海のお祭りは最高だと思うし、またこんなに大勢が集まるとは思わなかった」と、イタリアから来たという男性は「イタリアの南部にも同じような祭りはあるが、日本の伝統とお祭りは素晴らしいと思う。来てよかった」と話していた。
浜降祭の起源は江戸時代。天保9年(1838)5月5日、國府祭に出た寒川神社の神輿がその帰路、馬入の渡し場(現平塚市)で地元氏子との争いに巻き込まれ、大雨で増水した相模川に転落し、相模湾まで流れてしまった。寒川神社が湘南海岸の村々に捜索を依頼して数日後、南湖の浜で地引網を曳いていた網元の鈴木孫七が海中に沈んだ神輿を発見し、三日後、神輿は寒川神社に戻った。この功績により寒川神社の禊場も孫七の漁場である南湖の浜へ移され、同地に寒川神社の神輿が渡御するのが慣例となり、鈴木家は寒川神社御旅所神主に任命された。以後、鈴木家は代々「鈴木孫七」を名乗って御旅所神主を務め、現在は10代目になる。