伏見稲荷大社
連載・神仏習合の日本宗教史(27)
宗教研究家 杉山正樹
伏見稲荷大社は全国3万2千社、稲荷社の総本宮で、祭神は稲荷五社大明神(宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神・田中大神・四大神)の5柱である。『山城国風土記』逸文によれば、創建は秦氏の遠祖・秦伊呂具、年代は平安遷都の80年ほど前、和銅年間(708~715)元明天皇の御代とされる。秦氏が創建した神社としては、2万5千社を数える八幡神の総本社・宇佐八幡宮、醸造家からの信仰の篤い松尾大社がつとに知られている。『令和4年版 宗教年鑑』(文化庁編)によれば、国内の宗教法人神社総数は8万社とのことで、両社を合わせた信仰の広がりに、秦氏が祀る神の国・日本の一端を見る思いがする。
伏見稲荷大社の始まりについて先の『山城国風土記』は以下のように記す。「秦氏の遠祖の伊呂具秦公は、稲や栗などの穀物を積んで豊かに富んでいた。(あるとき)餅を用いて的とし矢を射(て戯れ)たので、餅は白い鳥と化し飛び翔けって山の峰に居り、(峰に)稲が生え(これを)社の名を稲成り(イナリ)とした。子孫の代になり、先の過ちを悔いて社の木を抜き、家に植えて祈り祀った。今その木を植えて育てば福が来、枯れれば福は来まいという」。伏見稲荷大社では、初午大祭の日に「福が授かる証の木」として、「しるしの杉」を護符として参拝者に製領しているが、大社創建時の穀霊信仰を由来とする貴重な神事となっている。
天満宮は牛、八幡社は鳩、熊野社は烏が眷属として遣わされるが、稲荷社のそれはまさに“神狐”である。狐が稲荷社の眷属となる理由について、〇稲の害獣である野鼠や野兎を捕食する傍ら、人家に出没して決して人と交わることのない姿と習性に神性を投影した、〇稲荷社が祀る食物神「御饌津神(みけつがみ)」の呼び名がいつしか音転し「三狐神(みけつがみ)」の文字があてられるようになった、〇尾が黄金色の稲穂に似ておりまた密教法具の宝珠との相似縁起から、〇空海が移入した荼枳尼天とこれにまたがるジャッカルと狐が習合した、などの諸説が存在する。
伏見稲荷大社の神体山・稲荷山は標高233メートル、東山三十六峰の最南端に位置する三峰の霊場であり、秦氏が入植する以前は龍蛇信仰の磐座であった。当初は、稲荷山の山中に社殿が建立されたが応仁・文明の乱で焼失、明治期に至り社殿跡が「七神蹟」の霊場として生まれ変わり、ここに親塚が建立された。
山麓の本殿から奥宮を抜け千本鳥居の階段を上れば、神名備・稲荷山約4キロメートル2時間の行程、通称「お山」と呼ばれる巡拝のスタートである。「お山」では、1万基を超える夥しい数の石碑・石祠群に遭遇する。これらは「お塚」と呼ばれるプライベート信仰の数々である。「お塚」の始まりは明治期の神仏分離であった。本願所のほか境内の仏堂がすべて廃寺となる一方、崇敬者による鳥居の奉納や私的な「お塚」の建立が親塚を中心に広がり、現在の稲荷山を特徴づけるものとなった。明治35年の調査では633基であったものが、現在は1万基を超えるという。
稲荷山は、磐座信仰を始まりとして神道と密教が習合、これに「お塚」信仰が混淆する重層的習合的宗教世界を織りなしている。とりわけ「お塚」は、大社の核心的霊威と引力で圧倒的存在感を放っている。『枕草子』には、清少納言の「お山」の様子が描かれているので、ぜひとも拝礼したい。
伏見稲荷大社最大の神事・稲荷祭では、東寺の僧侶による「東寺神供」を受けるが、これは空海と稲荷神の出会いを再現しているのだという。東寺造営の際、空海は稲荷山から用材を切り出した。これが祟り淳和天皇がご病気になられたため、伏見稲荷大社に極位の正一位の官位を授けたという。
わが国の旧財閥系企業が、稲荷信仰を奉じていることはよく知られている。岩崎弥太郎を創業者とする三菱グループは土佐稲荷神社(大阪府大阪市)、三井高俊を創始者とする三井グループは三囲神社(東京都墨田区)を奉じている。三囲神社には、秦氏の創建とされ「蚕の社」と別名される木嶋坐天照御魂神社(京都市右京区太秦)と同様の三本鳥居が置かれている。傘下企業の多くで毎年4月に稲荷祭が催されている。
「殖産的氏族」に徹した秦氏は、全国に殖産のネットワークを張り巡らせた。「文化は、人間社会が長年にわたって形成してきた慣習や振舞いの体系である」と定義すれば、日本文化の理解には、「秦氏が遺した文化と殖産の重層性と民間宗教のパワー」を外して語ることができないと筆者は考える。
(宗教新聞2024年8月10日付 814号)