円福山豊川閣妙厳寺(豊川稲荷)
連載・神仏習合の日本宗教史(26)
宗教研究家 杉山正樹
名奉行として知られる大岡忠相(ただすけ)公(1677~1751)は、享保の改革を推進した八代将軍・徳川吉宗就任の翌年、江戸町奉行に抜擢され、以後20年、幕府官僚として江戸の行政・司法・治安などの都市政策に携わる。吉宗が徳川幕府最大の名君として語り継がれるのは、忠相の活躍によるところが大きいとされる。
東京都港区赤坂御用地・迎賓館東門を壁沿いに南下すると、国道246号線(通称青山通り)との交差箇所に鎮座する豊川稲荷東京別院の山門に出る。境内には、忠相公を祀る八角堂の霊廟があり興味が尽きない。山門の由緒書きには、「大岡越前守忠相が、生涯の守護神として日夜信仰せられた由緒ある豊川荼枳尼真天像をおまつりする霊場」とあり、忠相公が豊川稲荷から本尊を江戸の下屋敷に勧請したのが始まりであると記される。
当時、大名や幕府の要職にある者たちは普通、国元の著名な神社、寺社を江戸屋敷に勧請し祀っていた。大岡氏の祖は藤原鎌足から20代、五摂家の一つ九条家の流れをくむ子孫が、三河国八名郡宇利郷(現在の愛知県新城市鳳来町)に居住、大岡氏を家号としたことに始まる。松平家に仕えたため松平広忠の一字をもらい受けた家祖が忠勝と宣明、以降「忠」の字を氏族の通字とした。
忠相公の荼枳尼(ダキニ)天信仰は、三河に定着した大岡氏が豊川稲荷を代々信奉していたことに由来するものと考えられる。忠相公は、江戸の防火政策、小石川養生所の設置、米価・物価の調整、風俗取り締まりなど数々の事績を遺し、寺社奉行に次ぎ奏者番、72歳で三河西大平藩(現在の岡崎市太平町)の一万石大名として立藩される。町奉行から大名に立身したのは、忠相公ただ一人であった。
豊川稲荷は通称で正式名は円福山豊川閣妙厳寺、曹洞宗の寺院で開基は後鳥羽天皇(順徳天皇の説もあり)を父とする寒厳義尹禅師(1217~1300)。本尊は千手観音だが、鎮守の護法善神として荼枳尼天が祀られ、こちらがつとに知られている。
寒巌義尹(かんがんぎいん)禅師が文永4年(1267)宋から帰国する折、妙相端麗で稲穂を荷い、宝珠を捧げ白狐に跨る霊神が海上に現れた。「われはこれ咤枳尼真天なり、今より将に師の法を護するにこの神咒を以てし、又師の教化に帰服する者を守りて、常に安穏快楽ならしめん。必ず疑うこと勿れ」。禅師は、御神示を賜わり深く感動されたので帰国した後、示現の御姿を自ら刻まれて終生守護の善神として祀られたという。
その後、義尹禅師の法孫の東海義易禅師が、豊川に圓福寺妙厳寺を開創された折、義尹禅師の刻まれた神像を遷座された。その霊験は顕著で、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの名だたる戦国大名をはじめ、広く一般大衆の帰依信仰を集めた。渡辺崋山、有栖川宮熾仁親王ら諸公も深く当寺を信仰し、殊に有栖川宮は「豊川閣」の扁額を寄進している。
「菊は栄え葵は枯れる」の御代、明治政府は神仏分離という文化大革命を強行した。とりわけ尊皇思想の流れを汲む水戸藩・岡山藩は、苛烈な廃仏毀釈運動に見舞われる。幕府のおひざ元である豊川稲荷も例外ではなく、明治4年(1871)の春、政府は稲荷社と寺院を切り離す方針で強く臨み、妙厳寺は全力を傾けてこれに抵抗した。幕藩下の有力旗本が競って信仰し、国民的な帰崇を受けて繁栄した豊川稲荷の分断の危難を救ったのが、西の高野・大寧寺(山口県長門市)の第45世住職・簣運泰成(きうんたいじょう)であった。
幕末、朝廷との対立から7人の公卿が都を追われて長州に逃れた(七卿落ち)。その一人、三条実美を手厚く保護したのが簣運であった。維新後、長州藩で兵制改革が原因での反乱事件が起こる。反乱鎮圧後、首謀者らが処刑された際、この処断に抗議した簣運は連座して山口を追われ豊川閣妙厳寺に身を寄せていた。その同時期に遭遇したのが、妙厳寺の神仏分離であった。簣運は当時の住職らと共に政府に救済を求め、新政府の要人に三条卿や多くの長州人がいたことが奏功し、豊川稲荷は危難から奇跡的に免れた。この機縁が故にその後、長門豊川稲荷別院が大寧寺に隣接して勧請されている。
情理を尽くした裁判を仮託して「大岡裁き」と呼ぶ。「お白洲もの」は後世の創作とされるが、謹厳実直な優れた民生官としての忠相公の実像が揺らぐものではない。インド由来の咤枳尼天はもと夜叉であったが、仏教に取り入れられると大日如来が化身した大黒天の調伏を受けて善神となったという。「大岡裁き」の魅力が、このあたりにあると感じるのは筆者ばかりであろうか。
(宗教新聞2024年7月10日付 813号)