藤原隆家/刀伊の侵攻から日本を守る

連載・愛国者の肖像(21)
ジャーナリスト 石井康博

 

大宰府政庁跡(古都大宰府保存協会提供)

 

 藤原隆家は天元2年(979)、藤原道隆と高階貴子の四男として生まれた。祖父の兼家と父の道隆が摂政・関白・太政大臣を務めた中関白家として知られ、兄の伊周も関白を期待されていた。姉の定子(ていし)は一条天皇の中宮で、叔父に藤原道長がいた。
 永祚元年(989)11歳で元服した隆家は従五位下となり、翌年には侍従に任官する。その後、着実に昇進を重ね、正暦4年(993)に右近衛中将、長徳元年(995)に権中納言に任ぜられたが、父・道隆の死去により運命が変わる。
 道隆の弟・藤原道兼が関白になるが間もなく病死し、権力の座に就いたのは叔父の道長だった。叔父に権力を奪われた中関白家の伊周、隆家は不満を溜めていく。この年の7月、隆家の従者と道長の従者が乱闘騒ぎを起こし、8月には隆家の従者に道長の随身が殺害され、翌年には兄伊周の女性問題に絡み、隆家は従者と花山法皇を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜くという大事件を起こしてしまった。
 これを重く見た道長は、隆家を出雲権守、伊周を大宰権帥に左遷したが、隆家は病気を理由に但馬国に留まる。長徳4年(998)、一条帝の生母・詮子の病気回復を願い、恩赦が発せられ、隆家は伊周とともに京へ戻る。隆家は「天下のさがなもの」(荒くれ者)と言われたが、人懐っこく憎めない性格だった。その後、兄の伊周とは違い、出世に関心のなかった隆家は、道長と多少の対立はあったが、良好な関係を築いて権中納言に戻り、従二位、中納言へと昇進した。
 寛弘7年(1010)、兄の伊周が関白になる願いが叶わないまま、失意のうちに亡くなると、隆家が中関白家の中心になる。一条天皇の中宮で姉の定子の子・敦康親王が皇太子になるのを期待したが、道長の外孫にあたる敦成(あつひら)親王(後一条天皇、道長の長女彰子の子)が皇太子に選ばれ、隆家の出世の道は閉ざされた。長和元年頃より隆家は眼病を患い、公務にも支障を来し邸宅に籠りがちになる。
 大宰府に眼の治療を行う宋の名医がいると聞いた隆家は、藤原実資の勧めで大宰権帥への任官を望むようになる。隆家が九州で勢力を伸ばすのを恐れた道長は渋ったが、隆家と仲のいい三条天皇の後押しで長和3年(1014)、任命された。
 大宰府に赴任した隆家は良い治世をして在地勢力の間で人気が高まる。当地は以前から新羅からの海賊にたびたび襲われていたので、旧蝦夷地域から兵を補完して軍備を整え、朝鮮の王朝が新羅から高麗に変わっても警戒を怠らなかった。土地の豪族や京から連れてきた武者も、重要な戦力として隆家を支えていた。
 都では藤原道長が絶頂期を迎え、平安な世が続くと思われていた。道長の有名な歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」もこの頃に詠まれている。
 しかし、隆家の大宰府での任期が最終年の5年目を迎えていた寛仁3年3月末に、北方の賊が突然、侵攻してきた。「刀伊の入寇」である。高麗の東海岸で蛮行を繰り返していた女真族を高麗が「東夷」と呼び、日本では「刀伊」と呼ばれた。当時、最先端の装備をした武装集団約3000人が、50余隻の船団で対馬・壱岐に押し寄せたのである。刀伊は両島で成人を拉致し、幼い子供や老人を殺害、家を焼き、家畜を食べるという蛮行の限りを尽くし、多くの犠牲者が出た。
 惨状の報に驚いた隆家は、都の指示を受ける間もなく、独断で行動に出る。地方の豪族、武装勢力を集め、都から来た武者たちと共に臨戦態勢を築いたのだ。子供のころから武芸をたしなみ、武官を歴任した経験もあり、評判も良かった隆家は地元の人々の支持を得て、本格的な軍備を整えた。
 刀伊は4月7日、九州筑前へと侵攻し、西方の怡土郡、次いで志摩郡、早良郡沿岸を経て博多湾を擁する那珂郡まで攻撃の手を広げた。迎え打つ土地の武装集団は果敢に抵抗したが、8日には能古島を起点に攻めてきた。自ら軍を率いた隆家は、前大宰少弐の平致行(むねゆき)、大宰大監を務める大蔵種材(たねき)、大宰少弐の藤原蔵規(まさのり)以下の武者たちと博多警固所(けごしょ)に向かい、防御に当たった。種材は70歳を越える高齢だったが奮戦したという。
 侵入が食い止められた刀伊は一旦退却した。日本側が脅しに使った「加不良」(鏑矢)が恐怖を与えたと言われる。9日の戦いの後、大風のために戦闘が中断し、「神明の所為」とされた。この2日間で隆家は防御の布陣を整え、急いで船を38艘調達し、攻撃に備えた。12日夕刻、再度上陸した刀伊軍を撃退した日本軍は、すぐに反撃に出た。数十艘で追撃し、完全に撤退させたのである。死者を多く出しながら、隆家は刀伊の入寇という未曾有の脅威からの防衛に成功したのだった。
 刀伊侵攻の件が京に報ぜられたのは、刀伊軍が逃げ去った後の4月17日。6月には刀伊との戦いで活躍した武将たちに恩賞が与えられ、大蔵種材は壱岐守に、藤原蔵規は対馬守に任ぜられた。任期を終え、翌年京へ帰った隆家は、大蔵卿を務め、長暦元年(1037)から再度大宰権帥となり、長久3年(1042)まで務めた。隆家は和歌の才能もあり、「後拾遺和歌集」や「新古今和歌集」に作品が収められている。
 隆家は長久5年(1044)1月1日に薨去、享年66。憎めない性格で、政敵の藤原道長や当時右大臣の藤原実資とも良好な関係を保ち、三条天皇からも信頼されていた。また豪胆な性格でありながら良い治世を行い、周囲からも人気があった。後世の武将からは、武勇によって日本を危機から救った英雄として尊敬されている。


(2024年7月10日付 813号)