信教の自由と人権は民主主義の基本

今は逆転のチャンス、声を上げよう
人権専門家の米田倫康氏に聞く

 文部科学省による世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への解散命令請求は信教の自由の侵害であるとの非難の声が国内外で広がる中、政教分離の原則に反し、信教の自由が脅かされている日本の現状について、人権という観点から信教の自由を守る必要性を、「市民の人権擁護の会日本支部」代表世話役の米田倫康氏に伺った。(石井康博)

米田倫康氏

 
信教の自由が危うい

 ――世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対する解散命令請求をめぐり、強引で不可解なプロセスが指摘されています。また、信者に対する差別や迫害が起きています。信教の自由が脅かされている日本の現状について、人権という観点からどう思いますか。
 私が日本支部代表世話役を務める「市民の人権擁護の会」は、精神医療現場の人権問題に特化している人権団体です。私の専門はあくまでも精神医療における人権なのですが、特定の信仰を持つ人々に対する差別や迫害は、精神障害者に対する深刻な人権侵害と非常に類似した構図が見られ、同根の問題を抱えているため、その観点から説明します。
 日本の精神医療の歴史は差別と偏見の歴史と言えます。精神障害者に対する偏見を作り出し、積極的に差別をしていたのが精神医療の専門家であるという点が重要です。その根拠の無い言説を政府が鵜呑みにした結果、差別的な政策が行われてきました。先日も、障害者に対する強制不妊手術を巡り、最高裁はそれを合法化した旧優生保護法が違憲であったという判断を下しましたが、そのような非人道的な政策がまかり通った背景には、人々の恐怖と不安を煽る専門家の存在があったのです。
 精神病が遺伝するという科学的根拠が無いまま、その遺伝を防止するという目的で強制不妊手術が実施されましたが、もっと効率の良い手段として精神科病院への隔離収容という手段にシフトしていきました。その際、精神医療業界は精神障害者を「常に平和と文化との妨害者」と決めつけ、危険な存在であることを世間に印象付けました。その結果、日本の精神医療は世界の潮流から大きくかけ離れた独自の歴史をたどり、現在においても強制を伴う入院治療が中心となっています。
 象徴的なのは「医療保護入院」という日本独自の制度です。これは、自身や他人を傷付けるといった緊急性が高いレベルでなかったとしても、治療のための「保護」という名目で本人の意思に反して強制的に入院させられる制度なのですが、司法を介在させない身柄拘束になります。資格のある精神科医の判定と家族誰か一人の同意さえあれば可能で、年間18万件も実施されています。精神科医が必ずしも正確な診断や判定ができるわけではなく、同意する家族が本人の利害と対立することもしばしばであり、家族間のトラブルに悪用される例も少なくありません。違法な形で病院に移送する拉致監禁ビジネスも存在します。
 昨年10月にWHOと国連から共同で発表されたメンタルヘルスについてのガイダンスは、強制治療を全否定する内容であり、日本の状況は明らかに反しているのです。ガイダンスは人権をベースとしたケアこそが回復をもたらすとして推奨しており、精神障害者の自由と権利を奪い自己決定させない日本とは対極にあります。
 特定の信仰を持つ人々に対しても同じような状況があります。特定の専門家が根拠に乏しいマインドコントロール論を持ち出し、判断能力の無い存在であると決め付け、オウム真理教と同質の犯罪者集団であるかのようなイメージを世間に植えつけることで不要な恐怖や不安を煽っています。日本国憲法や日本が批准する条約からすれば、宗教ヘイト、宗教迫害はあり得ないのですが、むしろ護憲や人権を唱える人たちによって、なぜか特定の宗教に対しては人権を度外視してもいいという風潮が、マスコミを中心に、あるいは政争の道具としてつくられています。その結果差別や迫害が正当化されています。本人の保護という名目で深刻な人権侵害も黙認されてきました。
 一昔前までは、精神科病院への強制入院が強制改宗・棄教の手段として悪用されていました。問題視されるようになると、家族によってマンションなどに監禁して監視、管理させるようになったのです。精神科病院への違法な移送や入院も、保護説得という名目で行われる強制改宗も、本来は刑法に反する違法行為ですが、家族の問題で本人の保護だと言うと、警察が介入しにくいのです。
 ――憲法の観点からはどうですか。
 日本国憲法と日本が締結している様々な条約の精神からすると、完全に反するわけです。ところが、可能になるのは、そういう空気が作られるからです。特定の得体の知れない存在に対しては何をしてもいいという空気です。いじめと同じで、何の根拠も正当性もないのですが、特定の権力を持つ人が、誰かをいじめのターゲットに指定し、「こいつには何をしてもいい」という空気を作るわけです。すると人々は、加害者にならないと自分たちが被害を受けると思い、傍観者も加害者になってしまうのです。いじめは駄目だと言われている一方で、マスコミや行政が、いじめに相当するような宗教迫害をすることが許されてしまう。ここがポイントです。
 私が懸念するのは、それは仕方ない、いじめられている方に責任があるみたいな考えでごまかされてしまうことです。自分にとって不都合なことを隠すために、あるいは自分に対して利益を誘導するために、憲法や法律を超えて、他人を迫害したり、誰かを標的にしたりする空気を作る行為の本当の原因は、その首謀者にこそあります。彼らは迫害されている方にこそ問題があるので、何をしてもいいという空気を作り、それに加わらない人は非国民みたいな扱いをするのです。それは、民主主義の崩壊でもあります。

フランスでは

 ――反セクト法が制定されたフランスでも同じような状況なのでしょうか?
 フランスに限らず世界のどこでも同じようなことが起きています。反カルト、反宗教を掲げる一部の活動家の動機は様々ですが、共通するのは宗教に対する偏見があることで、宗教は妄想で詐欺だという考えを浸透させようとしています。
 彼らは宗教の本質は理解しておらず、人助けなど倫理的な言い方には裏があるはずだと考えます。それは彼らの生き方からすれば当然で、生物学的な精神医学や反宗教的、マルクス主義的な思想には共通して唯物論があり、神や精神は存在せず、人間は魂のない動物で、世の中は物の価値が全てであると考えます。精神的な価値を言うのは詐欺の手段でしかないと考える人がいるわけです。
 問題はそれを政府やマスコミという権力を持つ人たちが鵜呑みにすることです。その結果、憲法や法律、条例、条約などを捻じ曲げ、政策に反映させてしまいます。行き着く先は独裁主義、権威主義で、そこには思想の自由、信教の自由は存在しません。布教も許されなくなるのです。
 自分を律する心、倫理観、道徳心などあれば、厳しい法律や監視は、本来は必要ありません。しかし、それが存在しない所では全員を監視するしかなくなり、だから行き着く先は監視社会で、家庭にまで国家が介入してくるのです。
 今のフランスは自由主義、民主主義の国と思われていますが、実際には共産主義的な考えが広がり、宗教への非寛容が一つの象徴として起きています。その先は監視社会、警察国家なので、そういう意味でフランスは多くの国が注目しています。宗教に対する迫害、偏見が進むのか、それとも、本来の「自由・平等・友愛」の精神に戻るのか、その境にいると私は思います。
 かつて反セクト法が出来た頃は、アメリカを中心に様々な国から批判され、少し方向転換はしたのですが、やはり根底にあるのは情報の出所の偏りです。情報源の多くは反宗教・反カルト活動をしている活動家や背教者で、彼らは所属していた団体を執拗に攻撃し続けます。団体側に一切の非が無いとは言いませんが、情報源が活動家や背教者に偏り、団体側が反論できないシステムは非常に危険だと思います。

声を上げよう

 ――日本への影響はどうですか。
 日本では寄付という宗教的行為の問題を消費者問題にすり替えています。寄付の行為が消費者問題として消費者庁に上がってくると、その情報に対して宗教団体は逐一反論できるわけではありません。フランスでも、政府の諮問組織に団体へのクレーム情報が報告され蓄積されるわけですが、当該団体には詳細が明かされないため釈明する機会がなく、次第に判断が偏ってくるわけです。これが間違った構図です。
 例えば、99%が満足したとしても、1%がクレームを言うことはどこの業界でもあります。正しいクレームもあると思いますが、特定の情報源に偏ってしまうと、判断を誤ってしまいます。
 日本の一番の欠点は、本当の意味で人権を知っている人が少なく、信教の自由の重要姓を主張してくれる人がほとんどいないことです。こうした問題をきちんと扱える国会議員がいません。マスコミは、個別の被害と信教の自由とは区別して報道すべきです。
 ――日本はアメリカの例を引くのが普通ですが、フランスを引き合いに出すのは?
 フランスは宗教に関して非常に偏った政策をしています。人権規約等の国際的な基準で見た場合、そこから外れた異質な存在になります。実際、フランスに対して多くの国が、信教の自由の観点から懸念を示しています。アメリカや国際的な基準を引き合いすると矛盾が生じるため、特定の信仰に対する偏見を煽るマスコミや専門家にとって正当化の拠り所となるのがフランスなのです。
 ――日本で信教の自由が守られるにはどうすればいいですか。
 本当の意味で「人権」を理解してもらうことが重要です。人権啓発、人権教育などたくさんありますが、なぜか特定のものに偏っています。性的少数派や外国人、同和問題などです。日本には言論封殺や度を超えた要求の手段として人権が使われた歴史があり、現在もあります。そのため、人権について語る人は、何か特定の主義主張に偏っているのではないかと一歩引いてしまう。しかし、基本的人権は憲法で認められ、世界人権宣言に基づく人権は様々な条約の基本となっています。その基本精神を理解せずに、逆に他人の権利を侵害する手段として人権という言葉を使うのが問題です。
 信教の自由は、基本的人権の中でもかなり基本的なもので、これがなければ、私たちが自由に発言したり、何ものかを信じたりすることができなくなります。そうした国や社会になってしまうのを防ぐのが「信教の自由」です。それがここまで蔑ろにされているのは明らかに知識の欠如です。日本国憲法ができた後に、差別的な優生保護法や精神衛生法ができ、それをもとに憲法に反したメンタルヘルス政策が展開されたのと同じです。
 今、議会の場ですら信教の自由が踏みにじられています。人の信仰を暴いたり、あるいは信仰を理由に集会の自由を禁止したりするようなことが平気で議論されます。宗教団体が無差別テロのような問題を起こすと、当然法律で規制されるべきですが、政治的な理由で特定の団体の活動を制限したり、差別・迫害をするのはおかしなことです。普段、人権や護憲を叫んでいる人がそれを率先して行っている。本当の意味でのリベラルなら、それを守るべきです。
 ――民主主義にはなぜ信教の自由が必要なのですか?
 気に入らない団体を恣意的に潰せる権限を政府が持ってしまうと、民主主義は崩壊してしまいます。戦時中には戦争に反対する人たちが弾圧されましたが、意見が通るかどうかは別として、何事にも意見を言えることが大事なのです。逆に、我々も物質主義を弾圧してはいけません。彼らにも主張する権利があるのですから。
 ――信教の自由が徐々に侵されている状況を変えるにはどうすればいいですか。
 声を上げる人が出てくるのがポイントです。いじめでも、誰かの「それはいけないことだよ」という一言によって正気を取り戻せます。本当に歯止めをかけるには、少数の正気の人が当たり前のことをきちんと言い、それを行動に移すことです。そういう人が今まで信教の自由を守ってきました。
 安倍元首相が暗殺されて2年になりますが、まともな声がちらほら出てきたのに希望を感じます。まともな声を受けて、正気を取り戻す人たちが増えれば、必ず世の中は変わっていくと思います。

逆転のチャンス

 ――米田さんが活動している「市民の人権擁護の会」とは?
 法律や憲法を超えた存在となっている精神医療を法の下に戻すことを目的に、1969年にサイエントロジー教会と精神科医のトーマス・サズ博士によって設立されました。精神医療の世界は、科学的な根拠や客観的な証拠がなくても専門家は強い権限を持ち、簡単に他人にレッテルを貼って人権を制限することが可能です。
 以前は差別、虐待、拷問に等しい行為が、本人のため、保護だということで正当化され、制度化されていましたが、人権を守る戦いをすることで状況が変わりました。今では国連もWHOも人権に基づいたメンタルヘルスケアこそが必要で、従来の、強制的な治療という生物学的モデルから脱却し、人権を尊重したモデルにシフトすべきだと変わりました。
 信教の自由に関しても今横行しているのはレッテル貼りで、不安を煽り、差別、虐待、拷問に等しい行為を保護という名目で正当化しているだけなのです。そこでも人権を守るために戦わなくてはなりません。
 信教の自由は守られるべきもので、個々の教義は関係ありません。宗教の最終的な目的は一致したとしても教義自体には共通点がなかったりしますから。しかし、一つ共通点があるとすれば、それは民主主義の根本である信教の自由です。世界共通のもので、誰もが守らなければならず、民主主義国家においては国民一人ひとりが、不断の努力によって保持していくのが義務とされています。人権は一方的に与えられるものではありません。
 信教の自由については、国民の多くが知っていながら、それが封じられたらどうなるのか知りませんでした。だからこそ、こうした経緯があったが、これからは守っていこうというように、この機会に逆転できると思います。ある意味でのパラダイムシフトです。
 歴史を振り返ると、人権問題は、ごく少数の勇気ある人が立ち上がった結果、大衆の意識が変わるということを繰り返しています。逆にこういうことがなければ、日本人は無関心のままです。
 日本もフランスと同様、精神性、芸術性が高い国です。精神性に対する理解や許容が自然に身に着いているこの国は特異であり、物質を超えた、高い次元の存在を敬うという気持ちが普通に強いのです。だからそれを許せない人もいて、日本人を物質主義で貶めようとするのです。日本ほど、精神性が高い一方で物質主義に近い精神医療が猛威を振るっている国はありません。反宗教・反カルトという宗教迫害によって信教の自由を奪うような、精神性に反対する運動も強いのです。

 よねだ・のりやす 1978年生まれ。東京大学工学部卒。市民の人権擁護の会日本支部代表世話役。在学中より、精神医療現場で起きている人権侵害の問題に取り組み、メンタルヘルスの改善を目指す同会の活動に参加する。被害者や内部告発者らの声を拾い上げ、報道機関や行政機関、議員、警察麻薬取締官などとともに、数多くの精神医療機関の不正の摘発に関わる。著書に『発達障害バブルの真相』(萬書房)、『発達障害のウソ』(扶桑社新書)、『児童精神科医は子どもの味方か』(五月書房新社)『精神医療ビジネスの闇』(北新宿出版)など。