源平合戦の戦場に

連載・神戸歴史散歩(4)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

須磨公園にある「源平史跡 戦いの濱」の石碑

一ノ谷の合戦
 清盛が開いた福原や大輪田泊の遺跡があるのは、JR兵庫駅のあたり。そこから少し西に行った須磨駅の近く、須磨公園の一帯が、源氏との戦いで平家の敗北を決定づけた一ノ谷の合戦の戦場である。
 木曽義仲に敗れた平家は、寿永2年(1183)7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、拠点のある九州・大宰府まで逃れた。一方、後白河法皇は京の統治に失敗した義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとしたため、激怒した義仲に幽閉されてしまう。寿永3年1月、源範頼(のりより)と源義経が率いる頼朝軍に攻められて義仲は敗死する。
 こうして源氏同士が抗争している間に平家は勢力を立て直し、大輪田泊に上陸して福原に軍勢を進め、さらに京の奪回を目指す。これに対して後白河法皇は、平家追討と三種の神器奪還を命じる宣旨を頼朝に出した。その先陣を命じられたのが範頼と義経である。
 寿永3年2月、範頼は大手軍5万6000余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて摂津へ向かった。迎え撃つ平家は、福原の東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口に強固な防御陣を敷いていた。
 義経軍は北から迂回して丹波路を進み、途中の平家軍に夜襲を仕掛けて撃破しながら山道を進撃した。そして、鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分し、大半の兵を山の手の夢野口へ向かわせ、義経は70騎を率いて断崖を駆け下り、一ノ谷の平家軍を裏手から急襲した。山側を全く警戒していなかった平家は敗走してしまう。

須磨浦公園にある敦盛塚

 平家の主力が守るのは知盛や重衡が率いる東の生田口の陣で、これに範頼が率いる大手軍が挑み、壮絶な白兵戦が展開された。今の生田神社がある生田の森が主戦場である。やがて、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じ、知盛は必死に防戦するが、浮き足立った兵たちは海に向かって敗走してしまう。
 安徳天皇や建礼門院らと沖の船にいた総大将の宗盛は、平家軍の敗北を見て、瀬戸内海を横切り、讃岐の屋島へと向かった。
 一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰り、義経は頼朝の代官として京に留まり、畿内の治安に当たるようになる。後白河法皇は寿永3年7月、安徳天皇を廃し、三種の神器がないまま弟の尊成親王を即位させた。後鳥羽天皇である。この間、治安のために後白河法皇が義経を重用したことが、後に頼朝の不信を買うことになる。

敦盛の最期
 『平家物語』で数多く描かれる戦の話の中でも、とりわけ人々の胸を打つのが一ノ谷の戦いにおける「敦盛(あつもり)の最期」である。17歳の美少年・敦盛は平経盛(つねもり)の息子で、笛の名手として知られていた。

須磨浦ロープウェイから「一ノ谷」を望む

 源氏側の奇襲を受け平家側は劣勢になった。騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実(なおざね)が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を切ろうとした。
 ところが、甲(かぶと)を上げると自分の息子と同じ年ごろの若武者だった。あわれに思った直実は、敦盛を逃がそうと思い、「名のらせ給へ。たすけ参らせん」と言うと、敦盛は「なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとって人に問へ。見知らうずるぞ」と答えた。
 直実が振り返ると、味方の軍勢が近づいてきていて、もはや逃がすのは不可能だった。意を決した直実は、涙ながらに敦盛の首を切り落とす。
 そして直実は嘆く。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかるうき目をばみるべき」と。これが遠因となり、後に直実は出家し、浄土宗の僧になって、法然が生まれた備前国(岡山県)に誕生寺を建立する。
 敦盛の最期は、のちに能や幸若舞の『敦盛』の題材となり、織田信長が好み、本能寺での最期の場でも舞いながら吟じたとされる「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は、幸若舞『敦盛』の一節である。
 須磨寺には敦盛の首塚が、須磨浦公園には敦盛の供養塔とされる五輪塔がある。

(2024年6月10日付 812号)