多様な価値の共存社会に向けて

連載・神仏習合の日本宗教史(31・最終回
宗教研究家 杉山正樹

 2年6か月にわたり連載を重ねた「神仏習合の日本宗教史」は、今回を以て最終回となる。日本固有の宗教文化である神仏習合の足跡を辿り、その変遷を読者の皆様と共に振り返ることができたこの期間は、筆者にとってかけがえのないカイロスとなった。今回はこれまでの連載を振り返りつつ、神仏習合の意義と現在におけるその価値について、筆者なりの視点を加え締めくくりたいと思う。
 日本古来の神道と外来仏教、さらには大陸由来の陰陽道が相互に影響を与え融合混淆した神仏習合の変遷は、そのまま今を生きる私たち日本人の現見(うつしみ)でもある。仏教伝来からわずか数世紀、両者は対立することなく共存と融合の道を歩んだ。奈良時代から平安時代にかけ、日本各地の神社に仏教寺院が隣接され、祭祀や儀式においても相互に習合が進んだことは、わが国のシンクレティズムの特徴的な一面であるといえよう。

気比の松原から日本海を望む

 とりわけ平安期においては、神仏が同一の存在であるとする「本地垂迹説」が成立し、神道の神々が仏教の諸仏・菩薩の「権現」とされる解釈が一般化した。異なる宗教文化を排他せずに包摂する穏やかなこの現象は、日本民族の根底に流れる「ヤワ(調和)し」「ツク(創造)す」心の証左であり、この精神美が社会全体の安定化に貢献した実証であると考える。
 時代が下るにつれ、中世から近世にかけての神仏習合は、習俗的な慣習として広く大衆レベルで浸透する一方、複雑な社会的要素が加わり、多様な宗教的視点をわが国にもたらした。例えば、鎌倉時代に登場した禅仏教や親鸞思想の「神祇不拝国王不礼」もその一例であろう。戦国時代の混乱期においては、尊格ごとの神仏習合が、戦国大名の庇護下で寺社勢力と共に拡大、権力構造との関わりを深めオリジナリティーの高い地域の一体感・精神的支柱としての役割を果たすようになった。
 明治維新期の「神仏分離令」は、日本人の精神文化に著しい構造変容を強いることとなった。代わりに、福沢諭吉が用いた「文明開化」と呼ばれる国民精神生活の再編施策、「西洋文明」とのラディカルなシンクレティズムが強引に図られた。終戦後、わが国に発令された「神道指令」は、欧米諸国にも前例のない「国家と宗教の分離」という苛烈な政教分離政策として、日本人の精神文化に暗い影を落とし続けている。

古代鍛冶工房の推定図


 比較文化学者の上垣内憲一氏と神職で歴史学者の真弓常忠氏は、その著作の中で「鉄」が支えた古代日本の成り立ちについて興味深い論説を行っている。神仏習合に連なる古代日本の成因について筆者は、両氏の論説から以下のように演繹する。一つは、応神朝を前後する古墳時代に大量の渡来人によってもたらされた鉄の精錬技術。一つは、政情不安定であった5~6世紀の朝鮮半島百済からの要請を受け、兵站支援との交換条件で移入された文物や仏教をはじめとする新知識・五経博士の派遣など。一つは、日本海を挟んで半島との交流が盛んであった越前の地に芽生え根付いていた大陸や半島の宗教文化の影響。
 奇しくも継体天皇は、応神天皇五世孫であった。仏教公伝は538年であるが、継体朝の御代には、既に仏教を受容する空気が朝廷内に醸成されていたのではないかと考える。この結果、7世紀代には古墳造営が退潮し、祭祀は寺社内で執り行われるようになる。山師(修験者)らによる鉱山の開拓、鋳鉄成形の技術開発と日本人の感性で作られる精緻で気品のある仏像の鋳造もこれを後押ししたのではなかろうか。
 宗教間の対立により民族までもが分断される現代社会において、神仏習合の理念は多様性を尊重し、真の共存を可能とする日本民族の特性と可能性を示唆していると言えよう。異なる宗教的価値観が共に存在し、調和を保ちつつ共生するためのモデルとして、神仏習合はグローバル化が不可避なった21世紀の今日において、注目され研究され得るべき宗教文化であると考える。

福井市にある足羽神社境内の継体天皇像


 この連載を通じて、日本の宗教史における神仏習合の歴史性や、その時代的背景をお伝えできたことを嬉しく思う。私たちがこの現象に学ぶべき点は、異なる価値観が共存できる社会をどのように築いていくか、という問いを探る一助を得ることであろうか。読者の皆様の心の中に、神仏習合の思想から何かの気づきが生まれれば、この連載は成功であったと考える。
 最後に、改めてお読みいただいた皆さまに心からの感謝を申し上げたい。

(宗教新聞2024年12月10日付 818号)