「同行二人」という救い
2024年12月10日付 818号
空海生誕1250年の昨年から四国遍路が増えている。今年はうるう年で、逆回りをするとお大師さんに会えるという信仰が、今もある。遍路衣装の菅笠に「同行二人」と書かれているのは、一人で歩いていてもお大師さんと二人という信仰である。
お大師さんの奥にはお釈迦様が、その奥には密教の本尊である大日如来がいる。大日如来は大宇宙の人格的表現で、それと同行するのは、仏教以前のバラモン教が目指した「梵我一如」、つまり大自然と一つになるのに近い。四国という曼荼羅世界を巡りながら、その境地を味わうのが四国遍路の醍醐味で、空海が説いた救いの形である。
空海は、「仏の教えは、遥かかなたにあるものではない。我々の心の中にあって、まことに近いのである」と語っている。「悟りを求める心を起こすと同時に、悟りに到達している」とも。即身成仏の教えが身近に感じられる。
原恩主義の日本人
釈迦は生老病死の四苦の原因が煩悩にあることから、修行により煩悩を否定することで悟りに至れるとした。つまり、仏教は否定の思想である。それに対して大乗仏教の最終ランナーである密教は肯定の思想と言えよう。煩悩は生きている限りなくすことはできないので、煩悩の生かし方を考えた。悟りの世界に生まれた私が、煩悩に気づき肯定しながら生きていく、煩悩即菩提の教えである。
そのための修行が、手に印を結んで身体を限りなく仏に近づけ、口で仏の言葉である真言を唱え、心で仏の心を感じること。言い換えれば大日如来との一体化である。
仏教とりわけ密教には人間への根底的な信頼がある。キリスト教の原罪主義に対して、仏教は原恩主義とも言えよう。キリスト教では、人は生まれながらに「原罪」を背負っているから、贖罪のために生きることになるが、日本の古代思想は逆で、ご先祖さまやおてんとうさまから「原恩」を受けているから、存在の意味を問うより、存在していることへの感謝が尊重され、神道も仏教も「今を生きよ」と教える。
明治以降、近代的自我の確立を目指した日本の知識人に一番読まれたのが親鸞である。親鸞の教えは「南無阿弥陀仏を唱え阿弥陀如来の救いを信じれば浄土に往生できる」と単純に考えられがちだが、核心はそうではない。強調されるのは、浄土で生まれ変わった私が現世に還り、人々のために奉仕すること。つまり、阿弥陀如来の心をわが心として生きることで、阿弥陀様との同行二人である。これが「一身独立して一国独立す」の明治の若い知性の共感を呼んだのである。
梅原猛は「親鸞において、地獄をつき詰めることにより、無限の生の喜びにいたる思想を見た。暗い生の相をも直視できる生の勇気、そこに日本文化の健康さがある」と言う。
今年の展覧会で印象的だったのは夏、大阪中之島美術館で開かれた「開創1150年記念醍醐寺国宝展」である。醍醐寺は平安時代前期の貞観16年(874)、理源大師聖宝(しょうぼう)によって開創された真言密教の拠点寺院の一つ。聖宝は空海と同じ讃岐の塩飽諸島・本島の生まれで、空海の実弟・真雅の弟子。宇多天皇の厚い帰依を受け、東寺長者、僧正などを務めた。また、役小角に私淑して吉野の金峰山で山岳修行を行い、修験道の再興の祖ともされる。聖宝の直弟子が醍醐寺初代座主の観賢(かんげん)で、讃岐生まれの観賢は東寺長者の時、空海への大師号下賜に貢献したことで知られる。
醍醐山の頂上にある上醍醐に登ると、聖宝らにより日本古来の山岳信仰と真言密教が融合した信仰の場に出会う。醍醐寺の始まりは、聖宝が笠取山の山頂に草庵を結び、准胝観音と如意輪観音を祀ったことにある。やがて醍醐寺は醍醐天皇の御願寺となり、天皇の庇護のもと上醍醐に薬師堂や五大堂が建立された。薬師堂には今日に伝わる薬師三尊像をはじめ吉祥天立像や帝釈天騎象像などが祀られた。上醍醐は開祖聖宝ゆかりの聖地として特別な信仰を集め続けている。
内的成長を喜ぶ
今年の明るい話題にふれると、アメリカの社会現象にまでなった大谷翔平選手は、心理学的には自己目的的性格の持ち主だという。そういう人は、報酬を期待することなく、自分の活動そのものを楽しみ、フローと呼ばれる、時間を忘れて没頭するような精神状態を経験し、強い幸福感や充実感を味わう。アスリートには、そんな状態を「ゾーン」と呼ぶ人が多い。
これは日本人の信心に近いのではないか。外的報酬より内的成長を喜ぶ心性で、それが日本人の倫理を支えている。高齢社会を健康長寿で生きるヒントもそこにありそうだ。