神戸とキリスト教/ザビエル上陸から高山右近へ

連載 神戸歴史散歩(10・最終回)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

ザビエルが神戸に上陸
 西洋文明をつくったキリスト教との出会いも神戸の歴史にとって重要である。そこで、神戸とキリスト教との出会いを点描してみよう。
 記録に残る日本人初のキリシタンはヤジロウで、天文17年(1548)にゴアでイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けている。ヤジロウは薩摩国か大隅国の出身で、彼自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に殺人を犯し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れたが、やがて罪の責め苦に耐えられなくなり、犯した罪を告白するためにザビエルを訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長で商人のジョルジ・アルヴァレスであった。
 ホモ・サピエンスの宗教史を概観すると、死を想う(メメント・モリ)ことから芽生えたであろう宗教心は、その後、集団をまとめる祭祀として発展し、護国宗教となって社会に根付いていく。インドではアショーカ王がマウリヤ朝の統治に仏教を取り入れ、古代ローマでは、長い迫害の果てに、コンスタンティヌス1世とリキニウスの二人の皇帝によって、313年のミラノ勅令でキリスト教が公認され、392年にはテオドシウス帝によりキリスト教が国教化された。いずれも、それまでの秩序を維持してきた精神的支柱が衰退したため、それに代わる機能として新しい宗教を取り入れたのである。日本での仏教も、当初は護国仏教として受容された。

鹿児島市にあるザビエル上陸記念碑


 しかし、宗教本来の核心は人の「救い」「悟り」「解脱」にあるため、宗教の重心もやがてそこに移っていく。マズローの欲求5段階説では、下から「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求(所属と愛の欲求)」「承認の欲求」「自己実現の欲求」と並ぶが、梅原猛はそれに加えて「救済欲求」があると言った。
 救済とは、今の自分が本来の自分ではないという自覚から生まれる。それが内なる悪、罪の自覚である。おそらくヤジロウは、平安時代末期から民衆に広まった浄土思想から、自分の悪を自覚するようになったのであろう。悪を自覚した人間にとっては、救いが最重要の課題となる。ヤジロウはまさに会うべくしてザビエルに出会ったと言えよう。
 ザビエルに日本でのキリスト教の布教について聞かれたヤジロウは、スムーズに進むだろうと答え、ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞いて、ザビエルは日本での活動を決意したという。そして1549年4月19日、通訳のヤジロウを従えゴアを発ったザビエルは、同年8月15日に鹿児島に上陸し、日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。しかし、その後のヤジロウの足跡については不明である。
 薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見し、ザビエルは宣教の許可を得るが、その後、仏僧の助言を聞き入れた貴久が禁教に傾いたため、天文19年(1550)8月にポルトガル船が入港していた肥前国平戸に移り、宣教活動を始めた。
 国のトップからの宣教がイエズス会の方針だったので、同年10月下旬、ザビエルは将軍のいる京を目指し平戸を出立した。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行い、周防の守護大名・大内義隆に謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買ったことから、同年12月17日に周防を離れた。岩国から海路に切り替え、堺に上陸し、この間、神戸に上陸しているが、どこの港かは分からない。
 天文20年(1551)堺の豪商・日比屋了珪(りょうけい)の支援でザビエルの一行は京に入り、了珪の紹介で同じく豪商・小西隆佐(りゅうさ)の歓待を受けた。ザビエルは、「日本国王」から宣教の許可を得るため、インド総督とゴアの司教の親書を示し、後奈良天皇と将軍足利義輝への拝謁を求めたが、献上の品がないため実現しなかった。比叡山延暦寺の僧侶との論戦も申し入れたが拒まれている。当時の京は戦乱のため荒廃し、室町幕府の権威も失墜していた。状況を理解したザビエルは、京での交渉をあきらめ、山口を経由して1551年3月に平戸に戻っている。
 同年4月、献上品を携えて三度目に山口に入ったザビエルが大内義隆に再謁見すると、珍しい文物に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、廃寺になっていた大道寺を一行の住居兼教会として与え、これが日本最初の常設の教会堂となる。ザビエルは大道寺で一日に二度の説教を行い、約2か月間の宣教で500人もの信徒を得たという。その中にいた盲目の琵琶法師が、後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。
 豊後国府内(現・大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞いたザビエルは豊後に赴き、1551年9月に守護大名・大友義鎮(よししげ 後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行うようになる。
 鹿毛(かげ)敏夫著『世界史の中の戦国大名』(講談社現代新書)によると、ヨーロッパに残されている中世の日本人を描いた絵に一番登場するのは、ザビエルによってキリシタンになった豊後王の大友宗麟だという。ヨーロッパの王の姿でザビエルを迎える場面などである。異教徒の王の改宗は、それだけ記念すべき出来事だったのだろう。
 大友氏は東南アジアから火薬の原料の硝石や鉛、ロウソク・口紅の原料の蜂蠟を壺に入れて輸入し、その壺に特産の硫黄を入れ、豊後から畿内に売っていた。九州や西国の戦国大名が宣教師を受け入れ、キリシタンになったのは鉄砲や弾丸、絹、陶磁器などを輸入するためで、対価は銀や硫黄、日本刀など。貿易が莫大な利益をもたらしたので、大名たちは競って南蛮貿易に乗り出したのである。
 対外貿易の始まりは足利義満の日宋貿易に始まり、それを大内氏や細川氏が継承、中国の冊封体制のもとで活動し、倭寇のような密貿易をする者もいた。宋は度々倭寇の取り締まりを日本に要請している。
 やがて大名たちは中国を超え、東南アジアからヨーロッパまで貿易先を広げていく。そこで活躍したのが漢文ができる臨済僧だが、海外に活躍の場を求めた商人や、奴隷に売られながらポルトガル語を学び、ザビエルの案内人になったアンジローのような民間人もいた。キリシタン規制が進んでも、コスモポリタン化した港町では平和的に混住していたという。
 幕府の力が弱まると、大名たちは地域的な「王」を名乗り、ベトナムやカンボジアなどの王に平和的交流を求める書簡を出している。後に鎖国になる江戸幕府も、徳川家康は三浦按針を使って世界貿易に積極的で、伊達政宗を介し、スペインとの交易も探っていた。
 興味深いのは、銀は日本から輸出のみとされていたが、東南アジアからの輸入記録もあった。16世紀は「世界史」が生まれた時代で、日本史も地球規模で見直す必要がある。
 日本滞在が2年を過ぎたザビエルは1551年11月15日、日本人青年4人と日本を離れ、1552年2月15日にゴアに到着した。同年4月、日本での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考えたザビエルは、バルタザール・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣すると、自身は中国を目指し、同年9月に広東省江門台山市の沖合にある上川島(じょうせんとう)に到着した。しかし、中国への入境は叶わず、そのうち病を発症して12月3日、上川島で46年の生涯を終えた。


高山右近
 ザビエルに続いて日本での宣教を始めたイエズス会の宣教師たちの足跡が神戸に残されているのは永禄2年(1559)のガスパル・ヴィレラとロレンソである。二人は京に上る途上、室津と兵庫に入港している。1565年にはルイス・フロイスと医師で修道士のルイス・デ・アルメイダが畿内に行く途中、10日間、坂越(さかごし 赤穂市)に留まっている。
 摂津国で伝道が進んだのは1563年頃、大和国榛原(はいばら)の沢城で受洗したダリオ高山飛騨守と息子のジェスト右近が1573年に高槻2万石の城主となってからである。高山氏は、摂津国能勢郡高山荘(現・大阪府豊能郡豊能町高山)を拠点とする土豪であった。
 永禄6年(1563)、イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラの堺訪問を知った僧たちは領主の松永久秀に宣教師の追放を依頼した。久秀は議論の上、不審な点があれば追放しようと考え、仏教に造詣の深い飛騨守と結城忠正を審査役とし、儒者の清原枝賢(えだかた)に宣教師と議論をさせた。キリシタン側はヴィレラに代わって元僧侶のロレンソ了斎が議論を行った。ところが、議論を聞いていた審査役の二人がキリスト教の教えに感化され、飛騨守は後にヴィレラを沢城に招き、嫡子の彦五郎(後の右近)をはじめ家族とともに洗礼を受けたのである。
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、摂津国芥川山城(あくたがわさんじょう)から三好長逸(ながやす)を追い出して、足利義昭の側近であった和田惟政(これまさ)に与えると、高山親子はその配下に組み込まれた。その後、和田惟政は高槻城に移り、芥川山城には飛騨守が城代として入ったが、惟政が池田氏との争いで討死したので、高槻城は惟政の子・惟長が引き継ぐ。その後、惟長に暗殺されそうになった高山親子は元亀4年(1573)に惟長を追放して高槻城主となり、摂津国北辺の高槻周辺を高山親子の所領としたのである。飛騨守が宣教師の布教を保護したこともあり、高槻ではキリシタンが増えていった。
 ルイス・フロイスの書簡によれば、飛騨守は高槻の「かつて神の社があった所」に自費で教会を設け、大きな十字架を立てている。そして「四名の組頭」を定め、「異教徒の改宗を進することや貧者の訪問、死者の理葬、祝祭に必要な物の準備、各地から来訪する信者の歓持」の役割を担わせ、その第一の組頭を飛騨守自身が務めたという。
 高槻城下における布教の中心は城主の右近ではなく飛騨守で、教会に次いで司祭館も設け、20か所に礼拝堂や小聖堂も建てた。天正9年(1581)当時、高槻領民2万5千人のうち7割以上の1万8千人がキリシタンであったという。京にあった五畿内のためのセミナリオは1582年に高槻城下に移転され、1585年までそこにあり、院長のオルガンティノとジョアン・ステファノーニ、4人の修道士が生徒の教育に携わった。
 
荒木村重の反逆
 高山右近が窮地に立たされたのは、荒木村重が織田信長に反旗を翻したからである。天正6年(1578)、右近が与力として従っていた荒木村重が主君・織田信長に反旗を翻した。村重の謀反を知った右近はこれを翻意させようと、妹や息子を有岡城に人質に出して説得しようとしたが失敗した。村重と信長の間にあって悩んだ右近が尊敬していたイエズス会のオルガンティノ神父に助言を求めると、神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」とアドバイスしたという。イエズス会にとっては信長の保護を得られなくなるのが最大の問題であった。
 高槻城は畿内の要衝の地であるため、信長は右近を味方につけるため畿内の宣教師を説得に向かわせた。右近は織田方につくつもりだったが、村重の下にある人質たちの身を案じ、決断しかねていた。
 高槻城内は徹底抗戦を訴える父・飛騨守らと開城を求める派とで真っ二つに分かれていた。懊悩の果てに右近は、信長に領地を返上することで織田との戦を回避し、そのうえ村重に対しての出兵も回避し、人質処刑の口実も与えないという打開策に思い至る。右近は紙衣一枚の姿で信長の前に出頭し、その潔さに感銘した信長は右近を許した。

高槻市にある高山右近像


 村重は城に残された右近の家族や家臣、人質を殺すことはしなかったが、結果的に右近の離脱は荒木勢の敗北の大きな要因となった。その功績を認めた信長は、右近を再び高槻城主にした上に、摂津国芥川郡を与え2万石から4万石に加増している。天正10年(1582)3月、甲州征伐で信長が諏訪に布陣した際は、右近も西国諸将の一人として帯同した。
 荒木村重が織田信長に謀反を起こした理由には、いろいろな説がある。遠藤周作は小説『反逆』で、「信長は彼にとって憎しみと恐れ、コンプレックスと嫉妬、そういう複雑な感情を抱かせる相手だった。一度でもいい。彼はあの信長の顔が恐怖で歪むのをみたかった」と書いている。
 村重は当初、摂津国の池田勝正に仕えていたが、その後、信長の家臣となり、戦功を挙げて摂津一国を任される。石山本願寺攻めの先鋒隊になった村重は、命を惜しまない一向宗門徒との戦いに疲れ、和睦を提案し、信長の許可を得て進めるが、うまく事が運ばなかった。そんななか、将軍足利義昭の調略が村重にも及んだのである。
 事態が切迫したのは、村重のいとこの中川清秀の家来が、密かに兵糧を石山本願寺に横流ししていたのが発覚しそうになったことである。そのうわさがやがて信長の耳に入れば、村重が処罰されるのは明らかだ。清秀や右近ら重臣を集めた軍議で村重は、信長に申し開きに行くよりも、反逆の道を選ぶと告げた。猜疑心を持った信長の下で働かされることに、限界を感じていたからだろう。別に、兵糧を横流ししていたのが正室だしの親族だったため、申し開きできないと考えたという説もある。
 天正10年(1582)6月2日、本能寺で信長を討った明智光秀は、右近と清秀の協力を期待していたようだが、右近は高槻に戻ると羽柴秀吉の幕下に駆け付けた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒を務め、清秀や池田恒興と共に奮戦して光秀を敗走させ、清洲会議でその功を認められて加増された。
 その後、右近は安土にあったセミナリオを高槻に移転した。賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政の攻撃にあって清秀は討死し、右近は善戦した。その後も小牧・長久手の戦いや四国征伐などに参戦している。
 右近は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンになった。たとえば牧村利貞・蒲生氏郷・黒田孝高(よしたか 官兵衛)などがそうで、細川忠興や前田利家は洗礼は受けなかったが、右近の影響からキリシタンに好意的であった。
 その一方で、右近は領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い社寺はほとんど消え、古い仏像の数も少ないという事態になった。領内の多くの寺社の記録には「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。
 もっとも、キリスト教徒側の記述では、右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが、その影響力が絶大であったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となり、そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。史実は同じでも立場によって歴史の記述は異なる。
 
明石の船上城主に
 秀吉からも信任の厚かった右近は、天正13年(1585)に播磨国明石郡に新たに領地6万石を与えられ、船上城(ふなげじょう)を居城とした。船上城は、播磨国明石郡(現・明石市新明町)にあり、明石川河口の西側、明石海峡に面した部分と明石川の湿地帯に築城された平城である。
 船上城は水城でもあり、船上川の河口部に港を築き、瀬戸内航路を利用して堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていた。右近が船上城にいる間に2千人が信者となったという。元和5年(1619)に明石城が築城されると船上城は廃城となり、明石城の巽櫓(たつみやぐら)は船上城の天守か櫓を移築したものとされる。

船上城の櫓を移築したとされる明石城


 秀吉が伴天連追放令を出すと、キリシタン大名は窮地に立たされた。ところが右近は、信仰を守ることと引き換えに領地と財産を全て捨て、世間を驚かせた。その後、しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに住み、天正16年(1588)に前田利家に預けられて加賀国金沢に赴いたが、囚人のような扱いを受けていたという。
 ところが天正18年(1590)には2万6000石の扶持を受けている。秀吉は厚遇により右近を豊臣政権に復帰させようとしたが、右近の棄教を拒否する意思の強さに断念し、前田家の管理下に置くことで、相応の待遇を容認したとされる。
 天正18年(1590)の小田原征伐にも、右近は追放処分の身分のままで従軍し、八王子城の戦いにも参加した。徳川との戦いが想定された慶長4年(1599)からの金沢城修築には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が役に立ったとされる。右近は利家の嫡男・前田利長にも庇護を受け、政治・軍事など諸事に渡って相談役になっている。
 慶長19年(1614)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去。長崎から家族と共に内藤如安らと共に船に乗り、同年12月、マニラに到着した。
 イエズス会や宣教師の報告で有名となっていた右近は、スペイン総督のフアン・デ・シルバらから歓迎を受けたが、船旅の疲れや不慣れな気候のため老齢の右近は病気になり、マニラ到着からわずか40日後の1615年2月3日に昇天した。享年63だった。
 高山右近没後400年にあたる平成27年(2015)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請し、翌2016年1月22日に教皇フランシスコにより認可された。

(2024年12月10日付818号)