『出孤島記』『魚雷艇学生』『死の棘』島尾敏雄(1917~86)

連載・文学でたどる日本の近現代(52・最終回)
在米文芸評論家 伊藤武司

島尾敏雄

戦争体験を小説に
 島尾敏雄は大正6年、横浜市戸部町に輸出絹織物商の父母の長男として誕生。関東大震災で家を焼失し、病弱で困難な生い立ちを経験する。小学生のとき自作の綴り方が雑誌に掲載されると、小冊子を一人で定期的に刊行した。16歳から複数の同人雑誌に、随筆、詩、俳句、評論などを発表している。
 23歳で九州帝国大学に入学し、昭和18年、法文学部を半年繰り上げ卒業。海軍予備学生を志願して旅順海軍予備学生教育部に入り、昭和19年、奄美諸島の加計呂麻(かけろま)島に駐屯。村落の旧家・大平家へ蔵書の閲覧に訪れ、小学校の代用教員をしていた娘のミホと知り合う。
 戦後、「近代文学」「序曲」等の同人になり、阿川弘之、小島直記、三島由紀夫、安部公房、安岡章太郎、吉行淳之介、吉本隆明らと交わる。かたわら、大学や高校で教鞭をとり、40歳で鹿児島県の職員となり奄美日米文化会館の館長や鹿児島県立図書館奄美分館長を務めた。
 昭和23年、同人誌に載せた『単独旅行者』が文壇の注目を浴び、30代前半の『夢の中の日常』、毎日出版文化賞受賞の『硝子障子のシルエット』『夢の系列』などシュールレアリスム系の作品を発表。その後、特攻志願までを描いて川端康成賞を得た『湾内の入り江で』などの戦争物を次々に世に出した。昭和24年、戦争の死の日常と戦争末期のさなかを抽出した『出孤島記』が戦後文学賞を獲得し新進作家として船出する。
 島尾は五味川順平や野間宏のような反戦作家とはいえない。当作の筆致の思想性は薄い。二人乗りの小型突撃艇の乗組員「百八十人」は、基地のある「孤島」での待機中、広島の壊滅が報道された。「戦局の様相の末期的現象を強く」感じた青年将校の「私」は、「隊長という位置で表立っていなければならない」。「私」とは島尾自身で、次第に組織の上下の規律と風紀がゆるみ崩れ、「愛すべき自殺艇」の出撃命令は最後までなかった。誰もが不安な心理状態の下、軍事訓練の明け暮れに、感情をおさえ平常心を心がける。だが主人公の心身は異なった反応を起こし、「私の胃腸は神経障害に原因して」「食欲はすっかり減退」し「神経衰弱に陥って」しまった。
奄美の女性と結婚
 昭和21年にミホと結婚。奄美の女性を伴侶としたことが人生を左右する決定的な意味をもつことになる。長編『魚雷艇学生』は野間文芸賞を獲得。海軍予備学生を志願した語り手の主人公による、横須賀の魚雷艇訓練所で「特攻要員」の「突撃訓練」をうけた話。「百八十名余りの隊員を率いる」「特攻艇」の「第十八震洋隊指揮官」になった「私」は、隊員たちから「隊長と言われるようになった」。新米の青年士官の戸惑う様子や、海軍の上官と兵曹たち下士官間の言葉遣いや接し方のわずらわしさ、「底光りのする敵意のこもった隊員たちの眼」、他の部隊との乱闘、子供のころの兄弟喧嘩の記憶、船内で赤痢患者が発生したことなどがこまごまと描かれていく。
 内向的でおとなしいイメージの島尾だが、高校時代には山登りや柔道をし健康な体躯であった。その後「肺浸潤を患って」しまったが、「乙種合格」で入隊している。震洋隊は「奄美の加計呂麻島を守備する大島防備隊付け」となり、特攻基地の「突貫工事による完成」に汗を流す。印象的な光景がある。「総員修正を行う」との名目で全員集合の命令を下した「分隊監事」が、「固く握った右手のこぶしで」200人の頬をビンタして回る姿に「私は彼に一個の泥酔者を見、そして又なぜか悲し気な殉教者が重なって見えたと思った」という個所。
 作品には妻ミホを象徴する女性や奄美の部落の光景がしばしば挿入されている。死と生の「重なり過ぎ去った日」をくぐりぬけた手記、南日本文化賞をえた『出発は遂に訪れず』では、部落民の慰問をうけ「土着のうたとおどりが披露され」ている。
 「二人の乗組む艇」は「一つの目的のため…突入が、その最後目的として与えられ」ていた。しかし「異常な完結的な予定の行動が延期されると」「鬱血した倦怠が広がり、やりばのない不満が、からだの中をかけめぐる」のであった。「嫌悪」「固い眠り」「不眠のあとの頭痛」「暗い怒り」「孤独な寂しさ」が凝結する。「本土からの補給路はとだえて久しいし、兵器も用具も補充される望み」はない。死の発動が延ばされてしまうと、自虐的に「手ひどい肉体のいためつけが私はほしい」と願うのだ。
 深い情をかわした「トエ」とは夜の外浜で出会った。「死装束を着け紋平をはき懐剣をかくしもったトエが闇の中うずくまっていた」。「私」は、「二百三十キログラムの炸薬を」積んだ「特攻兵器」で「突入の瞬間に」二人にかかわる「過去の未済の行為を帳消しにしてくれると思った」。「私の意識は二つに割かれ」、死を「自分のものとすること」のできる今回のチャンスと、これを逃すと「すべてはむしろ悪化し腐りはじめる」という妙に屈折した「ふしぎな精神状態」に陥った。「償い」で死に賭ける己に想いをめぐらしていると「ニホンハコウフクシタという考えが私を打った」。そして、死を準備していた出撃命令はついに来なかった。
 「一年半のあいだ死支度をしたあげく…心にもからだにも死装束をまとったが」、「出発しない」まま終戦を迎え召集解除になった。死の境地から現実の世界に生還した島尾である。しかしその後の道程を考えると、自己崩壊し投げだされたというのが実相だろう。その傷あとは脳髄の奥深くにぬり固められ、戦争の死霊が潜在する人生となり、多くの戦争ものが生まれた。また病妻ものと呼ばれる一連の著作『捜妻記』『島へ』『頑な今日』『崖のふち』『マヤと一緒に』『夢にて』となる。
夫婦の本質を問う
 昭和29年から16年をついやしたライフワークの『死の棘』は芸術選奨文部大臣賞を受賞した。純文学として20万部をこえるベストセラーとなり、平成2年には小栗康平監督によって映画化され、カンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを受賞した。
 『死の棘』のストーリー展開は異色で、形式は私小説的なリアリズムだが、シュールレアリスム色の混じった話が詰め込まれている。佐古純一郎は、『死の棘』の題目は、聖書・コリント人の第一の手紙の「『死のとげは罪である』このパウロの言葉が、…作品の世界の主調低音なのである」と解説。本文からいくつか引用し雰囲気をとらえてみよう。
 第一章 「…審きは夏の日の終わりにやってきた」「妻もぼくも三晩も眠っていない。…そして妻の前に据えられた私に、どこまでつづくかわからぬ尋問のあけくれがはじまった」第二章 「しかし郊外電車の駅までの道のりを、見張られている感じが消せないだけでなく、いきなり脇腹に出刃が痛烈に差しこまれる感受をなん度も自分でこしらえあげた」「あああ、うちはだめになっちゃた。…と伸一がひとりごとを言ったりする」
 小説家の夫を信じてきた妻は、あるとき夫の日記を開けて秘密を知ってしまう。それは結婚当初から他の女をひそかに愛し、その放蕩をひたすら隠しつづけてきた夫の裏切りであった。妻は逆上、半狂乱になり夫の隠しもつ秘密を探偵をつかって執拗に追跡。島尾家庭は文字通り地獄の底をはいずりまわる混乱の日夜を送ることになる。
 小説が現出した世界は、夫婦の断絶と崩壊した家庭の様相。夫婦関係が破綻してからは、相手の動向を神経質に監視し、その行動や言葉尻に一々神経を尖らせて猜疑心を募らせる。小説全体が息苦しさに覆われ、妻は育児や家事を放棄、夫を終日責め続け、夫は強迫観念に襲われる。島尾の健康もくずれ蔵王温泉で過ごしたり、娘のマヤは言語障害をかかえていた。
 昭和29年、突然の発作が35歳のミホを襲い、驚いた夫は妻を通院させる。翌年、「心因性」の精神障害の発症が確認され、原因は疑いなく夫の不倫にあった。終章「妻が精神病棟のなかで私の帰りを待っているんだ。その妻と共にその病室のなかでくらすことのほかに、私の為すことがあるとも思えなかった」と夫は半年間妻と一緒に外部と隔絶した生活を決意。こうして夫婦はとことん傷つけあう。
 しかし、愛憎のからみあった哀切な感情が、二人の間に離れがたくおかれている。騒動は子どもたちをも巻きこんだ。息子・伸三の当時を回想した一文は発作中の母の描写である。「おかあさんは…おとうさんだけじゃなくて、子どもにも怒りをぶつけ、絶食と徹夜で怒ったり叫んだり泣いたり笑ったり、大声で歌ったりする」と。この作品は死の淵に悄然と立つ夫婦・子どもたちが殺伐とした空間に曝されている。その苦衷がいつ果てるかも不明なカオスである。
 妻の病気治療で入院・退院をくりかえし家庭は佐倉や東京、市川に居を変えながら、最終的には妻の郷里の奄美大島に移住。昭和31年12月末、カトリック教会で長男と長女をともなって洗礼を受けた。妻の一族にカトリック信者が多かった理由もあった。
 佐古は再び罪人の救済という角度からキリスト教神学と文学に触れ、「人間のどうしようもない現実を、たじろぐことなく凝視しない…神学は、…観念に終わってしまう」が、「島尾氏の病妻ものと呼ばれる試みは、そういう、前人未踏の実験なのである」と深い理解を示している。奄美に転居し書き上げた『われ深きふちより』のタイトルが、詩篇の「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」を引いているのは決して偶然ではない。小説の終焉で一筋の光明が灯っている。
 ちなみに『死の棘』が芸術選奨を受賞すると、妻がこの受賞を非常に喜んでいると、島尾はコメントしている。夫人は奄美で暮らしながらゆるやかに精神の快癒の道をたどり、長い葛藤に終止符がうたれた。昭和63年、家計呂麻島に島尾敏雄文学碑がに建立され、鹿児島県立図書館奄美分館には島尾敏雄分室がある。
 武田友寿は『救魂の秘祭者』で、「島尾氏の文学はすべて加害者意識にもとずいて書かれ…自身のうちの加害者意識に慄へ戦いた作家も珍しい」とし、己の犯した「過去を背負い…その意味に耐えて生きてゆこうとするところに、ぼくは氏の贖罪の決意と姿勢をみずにいられない」と分析。奥野健男は「いったい夫婦とは何か、夫婦の絆は何によるか」、と問いかけ「今までの古今東西の文学、小説でここまで夫婦の本質を、その根源から問い、極限まで追いつめた作品はない」と絶賛した。
 島尾は短篇『ヤポネシア根っこ』『島と夢と現実』『琉球弧の視点から』で、独自の文化論「ヤポネシア論」を説いた。夫の影響を受けた夫人の『海辺の生と死』が田村俊子賞を得ている。昭和56年、日本芸術院賞を受賞。昭和61年、69歳のとき脳内出血で死没。葬儀はキリスト教式で、没後、遺稿集『震洋発進』が出版された。

(2024年12月10日付 818号)