伊藤整一/多くの将兵を救い「大和」と共に散った

連載・愛国者の肖像(24・最終回)
ジャーナリスト 石井康博

伊藤整一

 伊藤整一は明治23年(1890)福岡県三池郡開(ひらき)村で父・伊藤梅太郎と母・ユキの間に長男として生まれた。伊藤は高等小学校を卒業後、福岡県立中学伝習館(現:福岡県立伝習館高等学校)へ進んだ。家から学校までは遠く、寄宿舎ができるまで片道3時間以上を徒歩で通い続け、行き帰りに歩きながら勉強する姿は二宮金次郎のようであったという。
 明治41年に海軍兵学校に入学し、同44年に卒業。大正12年(1923)に海軍大学校を次席で卒業し、大正天皇より恩賜の軍刀一振りを賜った。伊藤は口数が少なく、思いが顔に出ない性格であったが、誠実で温厚な人柄は安心感を与え、多くの人に慕われた。
 伊藤は昭和2年から2年間、アメリカの日本海軍武官事務所に籍を置き、エール大学に留学するなど学びながらアメリカの実情を視察した。アメリカの圧倒的な国力を目の当たりにした伊藤は、後に対米戦争回避を主張するようになる。帰国後、伊藤は海軍兵学校の教官や重巡洋艦「愛宕」、戦艦「榛名」などの艦長を歴任し、海軍将校として順調に昇進していった。
 昭和16年(1941)9月、伊藤は軍令部次長に就任した。連合艦隊司令長官山本五十六と共に日米開戦を避けるために尽力するが、10月に主戦派である東条英機が首相になると、開戦はもはや避けられない状況になっていった。伊藤は最後まで戦争の回避に全力を尽くすが、日米間の溝は埋まらず、日本は開戦を決断した。
 山本はかねてから準備していたハワイ奇襲作戦(真珠湾攻撃)を12月8日に敢行。ここに太平洋戦争が始まり、伊藤は軍令部次官として帝国海軍の責任を負うことになる。海軍は最初のうちはイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈するなど、華々しい戦績を収めたが、ミッドウェー海戦以降は次第に形勢が不利になっていった。同18年山本はブーゲンビル島上空で戦死。その翌年になると、アメリカはB29による日本本土への空襲を視野に入れ、マリアナ諸島攻略に取りかかった。
 一方、日本はマリアナ諸島までを「絶対国防圏」と位置づけ、伊藤ら軍令部は死守すべく米軍の攻撃に備え、反撃の機会も狙っていた。6月15日にはサイパン島上陸が開始され、19日には連合艦隊とアメリカ主力艦隊との間でマリアナ沖海戦が始まった。伊藤らの努力もむなしく、レーダーなどの技術の差により帝国海軍は敗北し、壊滅的な打撃を受けた。7月7日にサイパン島が陥落し、日本の絶対国防圏が崩れた。この敗戦によって伊藤ら軍令部に非難の声が向けられるようになる。昭和天皇はサイパン島の奪還を所望されたが、海軍にはもはや力が残されていなかった。
 サイパン島陥落をはじめとした緒戦の敗戦に責任を感じた伊藤は、その責任を取る気持ちもあり、前線で身を挺して国のために戦う決意をした。12月には転出の願いが聞き入れられ、伊藤は戦艦「大和」を旗艦とする第2艦隊司令長官に任命された。人生最後の任務に就いた伊藤は死を覚悟していた
 昭和20年(1945)4月1日、米軍が沖縄本島に上陸、沖縄戦が始まる。もはや十分な航空戦力も艦船もない海軍は、米軍に対して特攻による攻撃にしか活路を見いだせない状態だった。連合艦隊は沖縄の状況を打破すべく、航空機による特攻作戦(菊水一号作戦)と共に、5日に第2艦隊に航空機の援護のない、艦船だけの海上特攻作戦を命じた。伊藤は無謀な作戦だと考えたが、参謀長の草鹿龍之介中将から「一億総特攻のさきがけとなっていただきたい」と言われ、納得したという。伊藤はその時「作戦行動が不可と判断した場合、現場の判断で作戦を中止してもよい」という確約を草鹿から取った。このことが多くの命を救うことになる。
 伊藤は自身の決断で、海軍兵学校を卒業したばかりの少尉候補生73名を下艦させた。自分の息子と同じような年の若者を死なせたくなかったのである。同時に病人や老兵など約30名も退艦させた。そして6日の午後、第2艦隊は出撃し、旗艦「大和」に搭乗した伊藤は一路沖縄に向かった。
 米軍はすでに「大和」の航路を把握していた。7日正午、第2艦隊は米軍に捕捉され、その瞬間、攻撃が始まった。米軍機の大群は波状攻撃を仕掛け、そのたびに爆弾、機銃弾、魚雷が容赦なく「大和」に命中した。伊藤はそれでも腕を組み、動じることなく、指揮はすべて部下に任せ、報告を聞くだけだった。午後2時、ついに「大和」が左に傾き、最後の瞬間が近づいていた。
 伊藤は「残念だったね。皆ご苦労様でした」と語ると、大きな決断をする。それは「特攻作戦中止」であった。伊藤は乗組員に「大和」から全員退艦するよう命じた。そして、残存した艦艇に、海上の生存者を救助するよう指示を出した。この伊藤の決断により約1700名の将兵が救われたのである。
 「一緒に行きましょう」と部下が伊藤にも退艦を促したが、「私は残る。君たちが行くのは私の命令だ。おまえたちは若いのだ」と答えたという。退艦する幕僚たちは後ろ髪を引かれる思いで伊藤と別れの握手をし、「大和」を後にした。その後、伊藤は長官室に戻り、大爆発と共に、海に沈んでいった。享年54。
 伊藤整一は敗戦の責任を負って、戦艦「大和」と共に散った。伊藤は将来ある若者を残すことが国のためであると信じて、彼らを退艦させたのだった。そして戦後、伊藤に救われた兵士たちは社会で活躍し、日本の再建を支えた。

(2024年12月10日付 818号)