家庭連合の解散命令請求について キリスト教徒の兄弟姉妹へ
言語聴覚士、博士(学術・広島大学)
ミカエル溝田悟士
家庭連合の解散命令が請求されている現状について、ひとりのキリスト教徒の視点から、同じキリスト教徒の兄弟姉妹たちへ、考えていることを書いてみようと思います。
私たちキリスト教徒は、家庭連合が色々と迫害を受けていることを知っています。私が大学生の時に通っていた教会の牧師は、旧統一教会から脱会をする信者や家族の手助けをしていました。ですから教会で脱会後の信者さんとご飯を食べたり、話し合ったり、資料を読んだりする機会に恵まれましたが、皆さんとても後悔をされていました。脱会後の信者さんの残していった手記に、世を儚んで自殺をしようとしていたが、統一教会の人に助けられた、という趣旨のことが書いてあり、旧統一教会の人たちにも「一般のキリスト教」の人たちと同じ愛を実践していることが分かり、複雑な気持ちになったことを思い出します。
時が過ぎ、安倍晋三元総理の暗殺によって始まった、家庭連合の人たちに対するメディアを中心としたバッシングのあまりの苛烈さに、家庭連合に反対する側にいた者として何かを語らなければならない使命があると感じています。
まず、聖書に基づいてイエスの教えに解決を求めたいと思います。ナザレのイエスが生きた時代、サマリア人はユダヤ人と同じモーセの律法を信じていましたが、ユダヤ教のエルサレムの神殿とは別にゲリジム山に神殿がありました。ですから、ユダヤ教徒にとっては「異端者」として扱われ、交際を避けていました。そのような中で、イエスはサマリアの地を避けて通るようなことをせず、サマリア人の女性や人々と差別なく交流されました。(ヨハネ4:1-42)また、イエスは誰が隣人であるかと問うた律法の専門家に対し、行倒れた人を介抱し助けたサマリア人が隣人となる、との答えを導いています。(ルカ10:25-37)このような記述から、「異端」と言われる人々であっても分け隔てなく接することが重要であるとの教えが得られるのです。
残念なことに、誕生の歴史的経緯や、保守的な主張、その他の教義について、多数のキリスト教会と統一教会の間で認識の違いがあります。ですからあるキリスト教会は家庭連合を「異端」として扱っています。この点では問題はありません。宗教が一定の教義体系を持つとき、その教義体系を相いれない考えを「異端」と定めざるを得ないのは、残念ですが致し方のないことだからです。
しかし、相手が異端であるなら交際を避けるべきだ、ということを、聖書が語っているだろうか、という「原点」に戻って考えるべきであると思います。イエスは異端であるサマリア人と差別なく交流し、本当の隣人は親切にしてくれた異端であるサマリア人であるという答えを導いています。家庭連合の人たちを異端者であるからと交流を禁じたり、隣人であるとみなさなかったりということは、聖書の教えに反するのだと知らなければなりません。常に対話を繰り返し、互いの誤解を改め、互いを訓戒しあい、宗教上の違いがあっても同じ人間であるということを常に確認していく、ということが求められているのではないでしょうか。
家庭連合に対し、解散命令が請求されたからといって、そのことのゆえに関係を断絶し、無関係を装い、教団の崩壊に任せることが正しいことなのでしょうか。世の中の人と同じように、投げた石で撃ち殺すことが正しいことなのでしょうか。
聖書が語る神はそのようなことを良しとされません。「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(エゼキエル18:31-32)キリスト教徒は、罪人たちが生き返り、立ち帰って、生きる姿を良い、としなければなりません。彼らが滅んでしまうことを心の底で思い描いてはいけないのです。キリスト教徒の義は、イエスの復活に基づく、罪の赦しであり、癒しであり、関係の回復であるはずです。
キリスト教徒としてどのように家庭連合と接していくか、団体としての「死刑」に匹敵する解散命令を喜ぶことは、明らかに聖書に反しているでしょう。家庭連合には教団としての体質改善を助けていく、そういうことが求められていることであるに違いありません。
兄弟姉妹の皆さんに、主の平安がありますように。