金峯山寺と修験道

連載・神仏習合の日本宗教史(30)
宗教研究家 杉山正樹

 

吉野山の千本桜

 紀伊半島のほぼ中央部に位置する吉野山は、大峰連山・北端約8キロメートルにわたる尾根続きの山稜の総称である。わが国有数の山桜の名所としても知られ、谷や尾根に広がる桜は3万本を数え、4月上旬から下旬にかけて、下千本に始まり、中千本、上千本、奥千本と順次開花していく。山一面が桜色に染まる景観は、訪れた人々の心を魅了して止まない。霞に曇る金剛山・葛城山の遠望と共に、眼下に広がる新緑の吉野の町並みが、絶妙なコントラストを加える。

 吉野から熊野につづく山上ヶ岳・普賢岳・弥山・八経ヶ岳・釈迦ヶ岳の連峰が、大峰山系と呼ばれる修験者の聖地である。このうち吉野山から山上ヶ岳に至る峰が金峯山と通称され、ここに点在する寺院群の総体が金峯山寺(きんぷせんじ)として知られる。

 天智天皇の近江大津京から逃れ、壬申の乱に勝利した大海人皇子、日本史上最も偉大な統治者として建武の新政を実現した後醍醐天皇が逃れたのも吉野であった。神武天皇は八咫烏の先導により、熊野から大和卯田(宇陀)を経て吉野に入軍したという。維新の志士が産声を上げたのも吉野で、当地は国家有為の人物揺籃の地相であるのかもしれない。

 峻厳な岩峰を踏破する大峰山系の峰入修行は、全行程180キロ、山中7日間に及ぶ険阻なルートの縦走で「奥駈け」の名で知られる。吉野山の中腹に位置する金峯山寺は、「奥駈け」の根本道場として栄えた修験道の総本山で、開基は役行者、7世紀の創建とされる。行者の死後、弟子によって著された『役行者本記』の現代語抄訳『役行者伝記集成』(銭谷武平/東方出版)によれば、大峰の山々で修業を重ねる行者にある日、「吉野の金峯山に登り寺院を建立せよ」と三輪明神から天啓が降りる。

金峯山寺蔵王堂

 仙山幽谷の秘境である大峯山上ヶ岳に登り、磐座の上で熱心に祈りを捧げる行者は、妙なる調べと共に美しい弁財天を勧請する。「この女身のお姿では、濁世に苦しむ民に勇気を与え勧懲を為すことは困難である」。天女は、行者の思いを悟り大峯の麓の天河の里へ降りて行かれたという。天女は後に弥山の鎮守として天河大弁財天社に祀られる。次に穏やかな表情の地蔵菩薩を勧請する。「慈悲深い地蔵のお姿ではなく、厳しく衆生を教導する憤怒の像を求めん」。地蔵は行者の思いを悟り天河とは反対の阿古の谷に降りて行かれ、後に那珂寺(現在の金剛寺)に祀られたという。

 「希望を無くした民衆に勇気を与え、悪者を懲罰する憤怒の神の姿を感得し給え」。行者が更に強く祈ると閃光が走り、耳を劈(つんざ)く雷鳴と共に盤石から湧出したのが、肌は青黒で怒髪は天を突き、真赤の口から鋭い牙を剥き出す金剛蔵王権現であった。その姿は、不動明王が躍り出たかとまがうばかりの美しくも凄まじい姿であった。行者は、これこそまさに求めていた神であったと感激し桜の木に彫り上げた。歓喜して天空着座した地に寺を建立したが、これが後の金峯山寺蔵王堂である。

 「(山)桜は蔵王権現のご神木であるから決して伐ってはならぬ」。行者は、鎮魂の働きのある山桜を聖木と位置づけ里人に諭し伝えた。「桜一本首一つ、枝一本指一つ」。以後吉野山では、枯木枯枝さえも焚火にすることが厳に戒められたという。当地では、信仰の証として神木山桜の寄進と献木が推奨され、今日にみる桜の名所となった。

 平安期には、貴族の間で密教による加持祈祷が広まり、多くの密教僧が大峯の霊山に集う。摂関期に末法思想が説かれると貴族は、盛んに御岳詣を行った。藤原道長が金峰山上に経塚を築いたのもこの頃である。平安末期から鎌倉時代にかけては、修験者集団が形成され「奥駈け」に「靡(なびき)」と呼ばれる75か所の行所・拝所が設置される。峰入り修行は制度化され、修験者は水分信仰の霊地を参拝した後、吉野と熊野の両地曼荼羅の世界観に競って身を投じた。

 明治の神仏分離令で金峯山寺の修験道は禁止され、すべての寺院は廃寺となった。広大な所領を喪失し経済的にも困窮するが、24年後の明治21年、もとの活動が認められ今日に至っている。

 行者が活躍した7世紀後半から8世紀の日本は、政変が相次ぎ国の根幹が揺らぐ未曽有の大混乱期であった。果たして、3年に及ぶコロナ・パンデミックは、コロナ以前に燻っていた人心の荒廃と社会崩壊の予兆を炙り出したかに見える。魔を破る青き異形の神、金剛蔵王権現こそが、混迷を極める令和の時代に求められる仏ではないだろうか。

(宗教新聞2024年11月10日付 817号)