朝廷の外交を担った神戸の神社

連載 神戸歴史散歩(9)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久

外国の客人を神酒で接待
 古代、瀬戸内海は大和王権にとって主要な外交航路で、大陸や半島からの使節や客人が来航するようになる。彼らを朝廷の外交や交易の施設である難波津の難波館(なにわのむろみつ)に迎えるにあたり、摂津国にあった代表的な神社に特別な役割が与えられていた。
 平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた『延喜式』には次のようにある。
 「およそ新羅の客人入朝せば、神酒を給へ。その醸酒の料の稲は(中略)二百四十束を住道社に送り、大和国の片岡の一社、摂津国の広田・生田・長田の三社、各五十束、合わせて二百束を生田社に送れ。並神部をして造らしめ、中臣一人を差して、酒を給ふ使に充てよ。生田社にて醸める酒は、敏売崎(みねめざき)に於て給ひ、住道社にて醸める酒は、難波館に於て給へ」
 新羅からの客人に神酒を給する意味は、「外国人の日本上陸を控えた祓え」と「遠路はるばる来朝したことに対する慰労」である。難波館に迎える前の、今風に言えば検疫と歓迎であった。

広田神社


 住道社とは今の大阪市東住吉区住道矢田にある中臣須牟地(なかとみすむぢ)神社で、当地は江戸時代は河内国だったが古くは摂津国に属し、『延喜式』神名帳の摂津国住吉郡には「須牟地」と付く神社が三社あり、同社はその内の一社で、かつ唯一の大社である。住吉大社に伝わる古文書『住吉大社神代記』には「子神」として「中臣住道神」とあり、住吉大社との関係が深いことが分かる。
 難波館で支給する神酒は住道社で醸造した酒で、原料の稲は周辺の大和国4社、河内国1社、和泉国1社、摂津国2社の計8社から送られてきていた。これに対して、敏売崎で支給する神酒は、生田社を中心に摂津国3社、大和国1社からの稲であった。
 生田社で醸す神酒に稲を供する広田、生田、長田の3社は地理的に近い。片岡社は今の奈良県北葛城郡王寺町で遠隔の大和国にあるが、中臣氏との関係が深いことから選ばれたのであろう。
 広田、生田、長田の3社は、神功皇后の三韓征討の際、3社の祭神と共に軍旅に冥助を垂れ、皇后凱旋の途次、広田社についで託宣を下されて創始された社である。神酒の稲の提供は、3社の名が示すように、「肥沃な田畑を有する社のため、その土地から収穫できた上質の稲各五十束を出させた」と思われる。
 「敏売」については『摂津国風土記逸文』に次のようにある。
 「能勢郡の美奴売(みぬめ)山の神が、皇后の三韓征討の際、私の山の杉で船を造って行幸なさるならばきっと無事であろうと申され、皇后は神の教えのままに船を造り征途につかれた。神の船はついに新羅を征伐した。凱旋の時、この神をこの浦に鎮座させて祭り、船も一緒にとどめて神に奉納し、この地を名付けて美奴売といった」
 この一文から、生田神社では、大和国の片岡社を加え、地元3社から提供された稲で神酒を醸造し、皇后凱旋ゆかりの敏売崎で、新羅の使節に対し、難波上陸寸前にわざわざ寄港させ、神酒を振舞ったのである。新羅に対する優位性を示し、わが国に手なずけようとしたのであろう。日本にとってはかつての勝利を回顧する美酒だったが、新羅にとっては屈辱的な苦い酒であったに違いない。(拙著『生田神社とミナト神戸の事始め』戎光祥出版より)

生田神社の由来
 生田神社は大河ドラマ「光る君へ」にも登場している清少納言が『枕草子』に「森は糺(ただす)の森、信太(しのだ)の森、生田の森」と書いたように、生田の森は古来有名で様々な書物に記され、源平合戦では大戦場となった。

生田神社の末社、大海神社


 日本列島はまさに災害列島で、伝承によると、生田神社は元は今の新神戸駅の少し北の砂山(いさごやま)にあったのが、水害に見舞われ、松の木が倒れて社殿を壊したので、刀祢七太夫(とねしちだゆう)という神主が御神体を背負い、安全な今の土地まで運んできたという。
 それ以来、生田神社では松がタブーになり、正月にも門松ではなく、杉の枝で作った杉盛(すぎもり)を立てることになっている。今も境内には松の木は一本もなく、昔あった能楽堂の鏡板にも、松の代わりに杉が描かれていた。
 生田神社は、私の知るかぎりでも、わが家が昭和12年に岡山の吉備津彦神社から神戸に移ってきた2年後に神戸大水害に見舞われた。昭和20年には米軍機が投下した焼夷弾で社殿や社務所を焼失し、平成7年の阪神・淡路大震災では拝殿や石の鳥居が倒壊した。その都度、不死鳥のように復興してきたことから、「蘇りの神」と呼ばれるようになったのである。
 神戸は古代から瀬戸内海の良好な港の一つで、古くは「務古水門(むこのみなと)」と呼ばれ、中国大陸や朝鮮半島の港と交流していた。『日本書紀』には神功皇后が朝鮮半島への遠征の帰り、難波の港に入ろうとしたが船が進まなくなったため、今の神戸港で神占をしたところ、稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ、「私は活田長峡国(いくたながおのくに)におりたい」と言われたので、海上五十狭茅(うながみのいさち)を神主として祀られたと書かれている。これが生田神社の始まりで、海上家は初代の社家になった。稚日女尊は天照大神の妹神、あるいは和魂とされ、また、事代主命が「自分を長田国に祀れ」と言われ、祀ったのが長田神社である。
 生田神社の二の鳥居を入って左側に、海上安全・交通安全・方位除け・道開きの末社・大海(だいかい)神社があり、御祭神は猿田彦命である。漁師や海運に携わる者たち、海を支配する豪族がいたところに、文化の高い神様が来て、いわば地主の神を征服したのではないか。大海神は地主の神であり、稚日女尊は天孫族の天津神で、伊勢神宮にも、天照大神を祀る内宮の近くに猿田彦神社がある。これも、土俗の神である猿田彦のところに天津神が来られたからであろう。境内をめぐるだけでも日本の古代史が分かるのは、他の古い神社でも同じで、神社には日本の歴史が刻まれている。
 稚日女尊は、高野山北西の天野盆地に鎮座する丹生都比売(にうつひめ)神社の丹生都比売大神と同じとの説もあり、その説の人たちは、生田神社も丹生都比売神社の系列にあるとしている。丹生都比売神社は空海が高野山に金剛峯寺を建立するときに社領を寄進したと伝わる、古くから高野山とゆかりの深い神社である。
 生田神社には明治まで、海上、村田、後神(ごこう)という三つの社家があった。生田神社を支え守る家・神戸(かんべ)として44戸が定められ、神戸村ができたのが今の神戸の発祥である。

射楯兵主神社

古代の鉄と神々
 住吉大社宮司を務めた真弓常忠氏(皇學館大学名誉教授)の『古代の鉄と神々』(ちくま学芸文庫)は鉄・製鉄技術の歴史から見た神社史として興味深い。そもそも日本が海を渡って新羅に侵攻したのも、当地の豊富な鉄を得るためであった。
 灌漑設備を要する水田稲作や巨大な古墳の造成を支えたのも鉄製の農具や工具であり、砂鉄や鉄鉱石などの資源と製鉄技術なしにはあり得ない。鉄は錆びて消滅してしまうので、古代遺跡から発掘されることは少ないが、弥生時代から古墳時代にかけての古代国家形成を支えたのは、武器を含め鉄器であった。
 姫路市の中心に播磨国総社の射楯兵主(いたてひょうず)神社がある。祭神は射楯大神(五十猛尊)と兵主大神(伊和大神、大国主命)で、射楯神と兵主神は全国各地に分布しているが、二神が併せて祀られているのは同社だけである。
 「射楯神」とは「作刀者」と推定され、「韓鍛冶」と称した帰化系製鉄技術者の奉祀する神であるという。射楯神は出雲に多く祀られており、砂鉄によるたたら製鉄という新しい技術者集団が渡来したことを示している。
 それに対して、弥生時代から行われていたわが国の製鉄は、砂鉄や水辺の葦の根元に付着した褐鉄鉱の団塊を使った倭鍛冶(やまとかじ)であった。弥生式土器を焼成する700~800度の熱で可鍛鉄(還元鉄の塊)を得られ、それを再び過熱し、再三打つことで小さな鉄製品を作ることができた。古墳時代中期まで、こうした原始的な製鉄が行われていたという。彼らは古い製鉄技術をもって農耕に従事し、オオナムチ(大国主)の神を奉じていた。
 そこへやって来たのが、新しい製鉄技術を持ち、アメノヒボコ(天日槍)を奉じる勢力で、古い文化と新しい外来の文化が播磨を舞台に争ったのである。『播磨国風土記』によると、伊和大神の名で語られる保守的文化が外来文化を押し返している。土着の民による製鉄技術がかなり進んでいたので、外来の技術を採用する必要がなかったのであろう。
 もっとも、倭鍛冶だけでは満足な製品が得られなかったので、韓鍛冶の新しい技術の導入も必要であった。『播磨国風土記』によると、韓鍛冶には百済系と新羅系の技術者集団があり、倭鍛冶も彼らの技術と文化を受容し、融合しながら新しい文化を築いていったという。
 真弓氏は修験道の発祥も鉱物資源と密接にかかわっているという。
 「修験道は、じつは高山幽谷に鉱床や鉄砂を求めて探査して歩いた、採鉱者集団の宗教ではなかったか。かれらがきびしい苦行・練行を課するのは、山野を跋渉する体力・気力を鍛えるとともに、何よりも霊力を得て、地中にひそむ資源を発見するためである。
 霊能を発動させるのは呪術である。修験道は霊能の宗教であり、呪術の宗教である。土から金を採り、火を用いて精錬し、農具や武器を作ることができるのは大いなる呪術であった。製鉄そのものが、本来シャーマニズムと深く結びついていたのである」
 修験者の行場になった地の多くは、鉄をはじめ鉱物資源が豊富な中央構造分離帯に沿って存在し、宗教も実利に基づいて発生していたことが分かる。行基や重源が社会事業を通して布教の実を得たのも、日本の宗教史からは正当な道であった。

神仏習合の日本の宗教
 
近年、発掘が進んでいる縄文遺跡などからも推測できるように、恵まれた自然環境の中で日本人は、自然と親和的な精神文化をはぐくんできた。その上に仏教を受容したので、江戸時代まではいわゆる神仏習合が日本人の自然な信仰であった。明治元年(1868)、神社から仏教色を排除するために神仏分離令が出され、それに伴い廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたが、日本の家庭には神棚と仏壇があるのが一般的で、今も伝統的な地域や家庭ではそうした信仰が継承されている。
 わが国には神や仏の聖地が数多くあり、山川林野に神は鎮まり、仏が宿っている。聖地は神と仏との出会いの場で、人々は神や仏を求めて山岳や辺地で修行し、神社や寺院に参詣してきた。そのような聖地が特に紀伊、大和、摂津、播磨、山城、近江などの諸国に集中している。これらの地には、わが国の本宗と仰ぐ伊勢の神宮をはじめ歴史ある22の神社や南部各宗、天台、真言、修験などの寺院が建立され、その後、浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉新仏教諸宗派が栄えた。そして伊勢神宮や熊野、高野への参詣、西国三十三観音霊場巡礼、各宗派の宗祖聖跡巡礼などが時代を超えて行われている。
 西国、近畿は神と仏の一大聖域で、悠久の山河と信仰の歴史に刻まれた祈りの道があり、これら神社や寺院への参詣、巡拝、巡礼は多くの史書、参詣記、巡礼記、道中記の類に記されている。こうした由緒深い神仏が同座し、和合する古社や古刹を中心とする聖地を整えようとして平成20年(2008)に設立されたのが「神仏霊場会」である。
 同年9月8日には、神仏霊場会発足の奉告祭と神宮正式参拝が伊勢で行われ話題になった。皇學館大學記念講堂で行われた奉告祭は私が斎主を、東大寺長老の森本公誠(こうせい)師が導師を務め、祝詞奏上、表白に続いて「般若心経」を唱え、生田神社雅楽会が神楽「豊栄舞」を奉奏した。森本長老は「神仏界に身を置く者の責めを探り、宗教の新たな叡智を学び、人々に潤いとぬくもりを呼び戻そう」と表白を読み上げ、聖護院門跡ほか各寺院の門主や管長らによる般若心経は真に荘厳であった。その後、神宮に参詣し、私に森本長老、神社本庁副総長の田中恆清石清水八幡宮宮司、半田孝淳天台座主が御垣内参拝した。

神仏霊場会の伊勢神宮参拝


 この4人を先頭に神仏霊場会の会員が4列に並び、五十鈴川にかかる宇治橋を渡る光景は圧巻で、多くのメディアで報道された。とりわけ天台座主の伊勢参りは初めてのことで、注目されたのである。
 翌平成21年6月11日に神仏霊場会の「神仏合同国家安泰世界平和祈願会」と総会が高野山で開催された折には、金剛峰寺で私が祝詞を奏上した。翌22年6月11日には生田神社で神仏合同国家安泰平和祈願祭と総会が行われ、23年3月6日には生田神社で神仏霊場会シンポジウム「日本の原風景―誘う神仏たち」が開かれた。
 5年後の平成25年には伊勢神宮の第62回式年遷宮を控え、また歴史を重ねた社寺でも鎮座や開宗、あるいは遠忌などの奉祝、慶讃の行事が続き、平成の御代はわが国の伝統的な神道や仏教をはじめ宗教界全体にとって意義深い時代であった。

東大寺で東日本大震災復興祈願
 日本人は太古から「自然の中に神々はおわし坐す」と信じ、畏敬の念を捧げてきた。太古の人たちは、人も木も草も国土も「神が生みたもうたもの」と信じていた。そこへ、約1400年前に、それらすべてが仏の慈悲の現れであると教える仏教が伝わり、古来の神道と融合しつつ、自然と共に生かされている日本人を育ててきた。インドと中国で鍛えられた仏教の言葉で、日本人の古来からの心性をを表現するようになったのが神道とも言えよう。幕末・明治の時代的背景から生まれた神仏分離令によって神仏は分離されたが、神と仏を敬い尊ぶ日本人の心は変わることなく続いている。
 近年、グローバル化の時代を迎え、人心の平安と社会の安寧、世界の平和の原点が神仏融和にあることが再認識され、神仏霊場への巡拝の機運が高まっている。インドや中国で衰えた仏教が、日本では今も多くの人々の信仰を集め、学び続けられている。それには、大陸からの適度な距離にある島国という地政学的な意味に加え、「和」と「寛容」を旨として暮らしてきた神道に代表される日本人の心情、霊性が大きく影響しているものと思われる。
 日本の宗教の特徴は、他を否定しない肯定の宗教であり、その肯定の世界を形づくっているのが神仏霊場会と言えるであろう。この活動を通して、寛容の心で互いを生かし合う心を広めていきたいと思う。
 平成23年(2011)6月9日、東大寺で「神仏合同東日本大震災慰霊追悼復興祈願会」を挙行した。これは、阪神・淡路大震災で社殿が倒壊した生田神社の再建に、神戸復興の証として邁進(まいしん)した経験から、神仏霊場会二代目会長として私が呼び掛け、実現したものである。
 祈願場の東大寺大仏殿は、奈良時代に、天災と飢餓の国難に立ち向かうため、聖武天皇が「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願われ、それに応えた多くの民の協力により完成したもので、しかも、盧舎那仏坐像(大仏)は宇佐神宮の八幡神の助力を得て造られた、神仏一致の象徴と言える仏像であるから、国難において神道界と仏教界が合同して祈りを奉げるのにふさわしい場として選ばれた。
 祈願会では僧侶と神職が二列になって大仏殿に入場し、東大寺長老と式衆による唄(声明)と散華に続いて、導師の北河原公敬(こうけい)・同寺別当(神仏霊場会副会長)が次のような表白を読み上げた。
 「古来われらが祖先は神仏を共に尊崇し、神仏への祈りに心の安らぎを求めてきた。しかし、地球自然の破壊力にはかなわない時があり、人知を超えた国難が東日本を襲った。度重なる罹災苦難があったが、世の人々共に蘇ってきた盧舎那大仏に神仏合同の祈りを捧げることで、被災地の神仏の霊威が回復し、物故者の御霊が安らかとなり、被災地の早期復興がなりますように」
 斎主の私が祈願詞を奏上したのに続いて、神職たちが大祓詞を奏上、神職代表が玉串を奉奠。東大寺の僧侶たちが「般若心経」を読経する中、僧侶代表と神仏霊場の満願者代表が焼香し、犠牲者の冥福と被災地の復興を祈願した。

高田好胤管長との交流
 
私の大学進学について、生田神社宮司だった父錂次郎は神戸市内の大学がいいと、旧制甲南高校から大学になって3年目の甲南大学への受験を勧めた。甲南大には兄知衛の恩師で神宮皇學館大學教授から文学部国文学科教授になっていた『近世の和歌と国学』『伊勢の文学』『福沢諭吉の研究』で著名な伊藤正雄先生と、京都府福知山市にある荒木神社の社家の出身で『宗祇・心敬の研究』『安土桃山時代の文学の研究』で名高い荒木良雄先生がいた。
 甲南大に入学した私は、クラブ活動で古美術研究会と歌舞伎文楽研究会に入部した。古美術研究会の顧問は後に兵庫県歴史博物館館長になる和田邦平先生で、毎週日曜日には奈良や京都の寺院を主に古美術行脚に明け暮れた。奈良の法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、室生寺、京都の南禅寺、知恩院、西芳寺、竜安寺、大徳寺、浄瑠璃寺などを見学し、夏には薬師寺や南禅寺、知恩院で合宿し、神職の息子でありながら寺院の古美術品の見学に学生生活を費やした。古美術研究会には彫刻、建築、庭園、絵画、考古学の研究班があり、私は建築班と彫刻班に属し、見学・研究に励んだ。
 この会のお陰で薬師寺の高田好胤管長には兄弟のように親しく接してもらい、言葉に語り尽くせない教えを受けた。薬師寺の境内に建立された佐々木信綱の名歌「逝く秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なるひとひらの雲」の除幕式にも出席し、川田順、落合太郎、前川佐美雄先生の謦咳に接することもできた。『大和古寺風物詩』の亀井勝一郎を甲南大学に招き、講演して頂いたのも忘れられない。私ほどお寺好きの神職は珍しいであろう。
 学習院大学史学科の古美術研究部の学生とも交流し、学習院大学を訪問したり、京都の八坂神社で交流会を催したりした。当時、学習院大学で部長をしていたのが、後に名古屋の徳川美術館館長になる徳川義宣(よしのぶ)氏である。大学3年生の時には岩手県の平泉に行き、中尊寺の佐々木管長の好意で宿坊に泊めて頂き、金色堂の中へ入れてもらい、写真撮影も許され、その時の写真は日本美術史の源豊宗(とよむね)関西学院大学教授に称賛された。
 当時の薬師寺は塀が崩れたままのような状態で、好胤さんは副管長で法光院におられた。そこで私たちが合宿をしていると橋本凝胤管長が講話に来てくれた。その時、私は手洗にいて、戸を開けるとうるさい音がするので、そのままじっとしていたところ、話が長く、夏の盛りなので大汗をかき、やっと話が終わったのを見て手洗いから出て行くと、あきれた好胤さんに「雪隠居士」というあだ名を付けられたのも懐かしい思い出である。
 以来、好胤さんとは家族ぐるみのお付き合いをするようになり、私が神戸で結婚式を挙げた昭和30年3月30日は薬師寺の大切な花会式なのに来てくれ、祝辞で「吉祥天に似た奥さんをもらって幸せだ」という話をしてくれた。
 阪神・淡路大震災で生田神社が被災した時には、かなり体が弱っていたにもかかわらず、秘書を当日夜に見舞いに寄越し、数日後、信徒を引き連れ見舞いに来てくれた。また、好胤さんは神宮の神嘗祭には必ず信徒を引き連れて参列し、僧侶として神仏和合を地で行っていた。戦没者の慰霊の旅もよくして、靖國神社への参拝も欠かさなかった。
 私は「ご飯がおいしくないのは伊勢と薬師寺や」と言ったことがある。新米は神仏にお供えして、人は古米を食べるのでおいしくなかったからで、すると「君はなんちゅうこと言うんや」と叱られた。
 好胤さんは修学旅行の中高生に話をするのが好きで、「三重塔のもこしはスカートや」とか「奈良は寺ばかりやとぶつぶつ(仏々)言うとるけど」など面白い冗談を言いながら、「般若心経」の意味など分かりやすく解説していた。私が寺回りをするようになった一つの要因には、好胤さんとの友情が大きかったと思う。
 好胤さんの「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心。ひろく、ひろく、もっとひろく…これが般若心経、空のこころなり」は名言で、「人は亡くなると仏になり、50年たつと神になる」と神仏習合のわかりやすい説明をされていた。

(2024年11月10日付817号)