『笹まくら』『輝く日の宮』丸谷才一(1925~2012)
連載・文学でたどる日本の近現代(51)
在米文芸評論家 伊藤武司
ジョイスの影響
丸谷才一(まるやさいいち)は大正14年8月、山形県鶴岡市に、開業医の丸谷熊次郎と妻・千の次男として生まれた。旧制鶴岡中学校(現・山形県立鶴岡南高校)に在学中、勤労動員で陸軍への嫌悪感をもつようになる。昭和20年3月、学徒動員で山形の歩兵連隊に入営し、終戦。
昭和22年、東大文学部英文科に入学。イギリス文学を専攻し卒論は「ジェイムズ・ジョイス」で、大学院修士課程を経て、高校講師、国學院大や東大の講師、助教授を務める。翻訳家、英文学者、作家、文芸評論・書評家、エッセイスト、教育者、和歌・俳諧の研究者として活躍し、歴史的かなづかいの日本語の論者でも知られる。
29歳で大学の同級生と結婚し、長編小説『笹まくら』を昭和41年に刊行し、河出文化賞を獲得。著者の技巧が綿密にほどこされ、代表作の一つとなった。例えば、しばしば( )によってコメントを中に挿入する。「『残軀』という言葉が不意に意識に浮かぶ。残軀―いつか、どこかで(いつ?どこで?)」見かけた言葉。「顔をあげて、誰かの視線と出会うことが(村上の視線でも、使い走りの女の子の視線でも)ひどく辛く感じられるからである」。 これらの例は後の作品群でしばしば使われるようになった。
次に、話の流れが一段落したところに、いきなり、まったく違う情景へシフトして進行するという傾向がある。さらに物語が現在から過去へ、過去から現在へと記憶や空想が連動し、行き交う饒舌な語り口で進められるのも実に個性的である。
これらの諸点から、新心理主義を唱えたモダニズム作家ジェームズ・ジョイスの影響が確認できる。ジョイスは意識の流れに自己分析をそえて文章化する。かつて伊藤整が、『新心理主義文学』でジョイスの革新的理論を紹介すると、私小説が主流であった文壇から冷淡に扱われた時勢とは隔世の感がある。
20代半ばから長編小説『エホバの顔を避けて』を昭和35年に上梓。昭和27年、イギリスの小説家グレアム・グリーンの作品を翻訳。欧米文学の知識を吸収しながら、評論も並行し、昭和34年、コリン・ウィルソンの『敗北の時代』を翻訳、39年、評論『未来の日本語のために』を発表。ジョイスの研究家として難解な『ユリシーズ』下巻を共訳刊行。昭和41年、評論集『梨のつぶて』を刊行。翌年、『にぎやかな街』『秘密』を発表すると連続して芥川賞候補になった。
昭和43年、雑誌「文學界」に載せた『年の残り』が芥川賞に。念入りな創作構造を基底に、老いや死、空漠感など、老人の心理を捕捉。丸谷は既に現代イギリス文学のすぐれた研究者・翻訳家であり、既成作家並みの大型新人の受賞と話題になった。
昭和44年に『若い藝術家の肖像』を翻訳刊行。昭和47年、『たった一人の反乱』出版。昭和49年、『後鳥羽院』が讀賣文学賞に。山本健吉は、王朝の宮廷に帝王として生きる後鳥羽院と、純粋詩人の定家の「二人の巨人の対立のドラマ」としてとらえた。同年、『ジェイムズ・ジョイス』を編集刊行。中編『横しぐれ』を発表。戦後国語論のさきがけとなった評論『日本語のために』『文章読本』を刊行。さらに国語教科書批判や国語教育、名文や文体の大切さなどを提言し国語論議に意義深い一石を投じた。
国家と個人との関係
昭和53年に『日本文学史早わかり』を刊行。丸谷は座談・対談の名手でもある。木村尚三郎、山崎正和らとの『鼎談書評』、対談『言葉あるいは日本語』がある。
長編『裏声で歌へ君が代』は57歳の作品。これは「台湾民主共和国」という架空の国の独立運動をめぐる国家論や国民との関係や国歌、憲法、軍隊、政体などのあり方を能弁・闊達に語り渡りあう壮大な政治的エンターテインメント。
59歳で刊行した『忠臣蔵とは何か』は野間文芸賞受賞。三部作の『日本文学史早わかり』『忠臣蔵とは何か』『恋と女の日本文学』は、王朝時代からの日本の文学史が主要なテーマ。日本人のもつ精神的特性を検分し、万葉集、源氏物語、古今集、新古今集で詠われてきた恋歌の文化現象を検証し、「日本文学はなぜ恋愛肯定的か」という命題を掲げている。本居宣長、津田左右吉、折口信夫らの従来の定説を尊重しつつも、中国、西洋の文学観との比較対照により自論を展開する文学評論である。昭和63年、62歳で発表した作品集『樹影譚』が川端賞を得た。
68歳の著作、長編小説『女ざかり』はイギリスで翻訳された。主人公の新聞論説委員、南弓子が書いた社説に政府から圧力がかかり、恋人の哲学教授、別れた夫との間の娘、叔母、友人たちが国家の策謀に立ち向かう絶妙なストーリー展開で、ベストセラーとなり、吉永小百合主演で映画化されている。大江健三郎は「新しい書き方が成功作に実ることは難しいが、『女ざかり』を読む者は、生きいきした幸福感とともにそれを認めるだろう」と褒めている。詩歌においても、丸谷は健筆を発揮し、独自の文化論と感性で選定した『新々百人一首』は大佛次郎賞に輝いた。
『笹まくら』の主人公浜田庄吉45歳は、都内の保守系私立大学の庶務課課長補佐。妻帯者である彼は、事務処理や人間関係を十分に熟知し、この日も「平凡な人間の平凡な人生」の朝になるはずであった。が、阿貴子という「昔の恋人で、しかも命の恩人である女の死を告げる」「黒い枠の葉書」が届いたのだ…。
大学へ向かう途中目にとまったのは、交番の窓に張られた「殺人強盗犯人」の顔写真のポスターで、次に学生たちに追いつめられ取り押さえられた「大学あらし」の事件を目の当たりにする。アパートに帰りテレビを点けると、白人の青年がポリスに追われている光景である。
夜、妻とベッドに横たわると、忽然と戦中の5年間、「徴兵忌避者」と見破られないかと怯え、憲兵や刑事から逃げ回っていた記憶がまざまざとよみがえる。20歳で九州に召集され、「おれはもう彼(注・浜田)ではない。呼びつけられ、闘い、そして死ぬ、あの従順で善良な彼らのなかの一人ではない。…ぼくにはぼくの…孤独な運命がある。ぼくはその運命を生きてゆくしかない。おれは自由な反逆者なのだ」と逃亡の意志を固めた日の記憶を。彼のその時の遁走は、右翼や左翼の主義やイデオロギーに染まった大それた考えからではない。欧米の信仰による良心的兵役拒否の類でもなかった。ただ、軍隊を嫌悪し「敵を殺すのが厭だった」だけだったのである。
死亡した恋人の結城阿貴子は四国の質屋の娘で、徴兵忌避の浜田青年の秘密を知りながらもかくまってくれた。負い目をもつ彼は、「杉浦健次」の偽名で、九州、北海道、東北、北陸、中四国と「日本中を歩きまわり逃げまわりながら」、ラジオや時計の修繕、砂絵屋などで終戦まで食いつないできた。終いは阿貴子の家「結城質店」の「居候」、「いや、もっと意地悪く(あるいは、正確に)言えば、男めかけ」になって生きのびたのだった。小説は、新古今時代の和歌―これもまたかりそめ臥しのさゝ枕一夜の夢の契りばかりに―の一首を掲げ、5年間通り過ごし生きのびた笹まくらの旅を、中年の浜田は感傷的に追想するのである。
作家で詩人の池澤夏樹は、批評家が丸谷の文学的資質だと断じている。「近代の小説は原理的に批評を含んでいる」の一句で始まる評論『内なる批評家とのたたかい』である。それによれば、漱石、鴎外、伊藤整、大岡昇平、中村真一郎らを凌駕して、「丸谷才一ほどこの原理を意識して小説を書いた者はいなかった」という。「彼の小説はすべて内なる批評家とのたたかいの成果」であり、『笹まくら』以降の著作はすべて、批評的指標をもって巧妙な構成で形象化されていると総括。
磯田光一は、「丸谷氏の小説のうちで最も充実している作品の一つ」であり、「一度は軍服を着た丸谷氏が、そのにがい経験をかみしめながら、いわば〝ありうべかりし自己”の姿を小説という虚構のうちに定着し、歴史のなかでの個人の運命をくっきりと浮かびあがらせた小説」と規定。もう一人山崎正和は「日本の「戦後」文学と呼び得る数少ない作品のひとつ」、「文学史における記念すべき事件のひとつ」と評している。
丸谷の小説が見せる顔は、罪の意識や告白などで紙面を埋める伝統的私小説とは質も次元も異にしている。堅調な構成に作者の持ち味である英国流の豊かな知性、上質なユーモア、ギャグ、ジョークなどの可笑しみをつつみこんだ市民小説といえる。それにくわえて、日本の王朝物語の伝統的な風趣や風雅な味を取り入れるのだから小説が面白くならないわけがない。
『笹まくら』の本質は、国家・社会と個の関係としてとらえることができる。全国を転々と、刑事や人々の目を恐れて放浪する背後には、彼を追跡する国家権力がいた。そうした重圧にもかかわらず、それを感じさせないのは文章表現の柔軟さや明るい筆さばきである。ウィット、笑い、アイロニーがあり、また、酒や軍歌や流行歌とにぎやかである。浜田の昇進の噂を聞きつけた庶務課のライバル西が嫉妬し、泥酔した勢いで妻に八つ当たりする様は、滑稽でおかしみにみちている。男と女のことば遣い、やくざ風の話しぶり、酔っ払い、軍人口調、エリートの語り口の使い分けも鮮やかである。
長い放浪の旅も広島と長崎に原爆が投下され、天皇陛下の勅語がラジオで流れて終わる。「予想どおりになった!しかし喜びは彼の心に一滴もなかった」。「どうしよう…これから」と、重たい気分が25歳の青年にのしかかってくる。平和な時代が到来し当の昔に戦いは終わったというのに、彼のメンタリティーは今なお戦前と少しも変わってはいない。学内の職員や教師や学生たちのささやく「浜田君は平和主義者だから」という声に神経を尖らせる。戦争中の英雄的な行動が知れわたり、否、その事実が暴露されると派閥の批判者から標的にされ、「過去を忘れようと務めながら―忘れることができずに」、屈折した心理に迷走するのである。
欧米でも高い評価
書き下ろしの『たった一人の反乱』は三作目の長編小説で、谷崎潤一郎賞を射止め、テレビ放映と英訳された。三浦雅士によると、この小説のユニークさは「日本の近代小説の伝統である悩める主人公という範疇から著しく逸脱し」、馬淵英介という俗物に託して「明治以降の日本の、小説を中心にした文学の流れに対する反乱」であると指摘。池澤夏樹の考えにしたがうと、「高度経済成長期を迎えて希少化した日本人たちのサイズに合った第二の兵役拒否の物語」となる。
こうした日本の自然主義リアリズム文学から一歩距離をおき、独特な構成の巧緻さでつむがれる丸谷作品は、欧米各国でも注目を浴びた。日本文学の翻訳家、イギリス人のデニス・キーンは、丸谷文学の特徴を「贅肉がない文章」「見事な構成」「登場する人物が普通の日本人」「滑稽味」と要約し、「おそらく丸谷才一は、彼の愛好する現代のイギリス文学の書き手よりも、はるかにイギリスの正統を受け継いでいる文学者」であり、「日本文学が生み出した最初の実験的作家」だと激賞している。
『笹まくら』で( )の趣向をほどこした丸谷は、『年の残り』の結末部分の日記文では一部を一本の線で消すという消し書きの仕掛けを工夫している。また、『裏声で歌へ君が代』になると、まず、16章では麻卓を前に3人がパイを打ち始めると、たちまち小説が演劇的な流れになり、小説が完全に終わっても、空白の数ページが作品の一部として保存されるという新奇さである。
実例をあげれば、新潮社版の全515ページの5ページ分がまるごと空白のまま。そして最末尾の一文に「物語は終わった」とある。そして読者に向けて「さう、今度はあなたの番だ。すでにバトンは渡されてしまってゐる」と、読者自身が主人公となって空白をうずめるべきことを仄めかす余裕のユーモアのセンス。詩文には空白に余韻をもたせる詩はいくつもあるが、小説にこのような例が他にあるだろうか。
源氏物語の核心に迫る大野晋との共著『光る源氏の物語』は、中村真一郎のコメントが素晴らしい。「その面白さ、奇警さ、意外さ、などなどに引きまわされて、…呆然としている」との印象である。
平成15年、泉鏡花文化賞を得たのが小説『輝く日の宮』。78歳で書き上げた彩色は、泉鏡花を専門とする女子大学の講師・杉安佐子を主人公にした手のこんだ創作。冒頭は安佐子が14歳の時に書いた恋愛小説がでてくる。時代背景は現代社会であるが、平安王朝さながらの「花は落花、春は微風(そよかぜ)の婀娜(あだ)めく午後(ひる)、純白の水兵服の上衣(うわぎ)に紺の衿(えり)、繻子(しゅす)のタイふうはりと結んで、プリーツ寛(ゆた)けくつけた紺のスカートの娘…」といった美麗な文章の連なり。あるいは美意識たっぷりな鏡花風なのかもしれない。
内容は『源氏物語』に幻の帖があったという伝承をたよりに、編年史にそって考察した長編。想像力たくましく叡智をもって万葉集、源氏、枕草子、紫式部日記、蜻蛉日記等の典籍、奥の細道、鏡花やシェークスピアやヘンリー・ジェームズなどの豊富な文献から幻の帖の可能性を考証。演劇的なスタイルで語られる新説で、源氏物語は近代小説・王朝物語・古代説話の三層からなるという示唆は蠱惑的である。聴衆を前に情熱的に芭蕉論をトークする安佐子は、著者自身の主張でもある。源氏研究の正統派・大河原篤子との論争バトルも読みどころ。
丸谷は昭和48年に「四畳半襖の下張り裁判」で被告人となった野坂昭如の特別弁護人として裁判で証言した。これは作品の中で、既存の伝統や硬直化した制度・官僚化に抵抗する丸谷らしい行動だったといえる。
丸谷は芥川賞、谷崎賞、讀賣文学賞、野間文芸賞や各種の選考委員を務めた。1998年、芸術院会員になり、2011年に文化勲章を受章。感銘的な文学的趣向を定立させ、生涯独特な存在感をみせた教養人・丸谷才一は87歳で永眠した。
(2024年11月10日付 817号)