泰澄と白山信仰
連載・神仏習合の日本宗教史(29)
宗教研究家 杉山正樹

富山・石川・福井・岐阜の4県にまたがる白山は、標高2702メートルの活火山。秀麗優美な白嶺を持ち、富士山・立山に並ぶ日本三霊山の一つである。山頂部は、御前峰・剣ヶ峰・大汝峰の三峰で構成され、その年代差は10万年を超えるという。主峰は存在せず、三峰主頂部とその周辺連峰を加えた総称が、白山の呼び名となっている。
豪雪地帯に位置するため稜頂付近は、四季を分かたず白雪に覆われる。急峻な地形から人跡未踏な渓谷も多く、水晶細工のように空に浮き出た山容から、古代より霊峰白山として神聖視された。万年雪を抱く白山は、手取川・九頭竜川・長良川の豊富な水源地として、流域に住まう平野部の生活を潤し、日本海を生活の場とする漁民に対しては、海上における山当(やまあて)の役割を担った。
白き神々が坐す遥拝霊山、白山(しらやま)の山岳信仰・白山信仰を拓いたのは、「越の大徳」と称される泰澄(682~767)であった。平安中期に成立した『泰澄和尚伝記』によれば、泰澄は越前国麻生津(現福井市三十八社・泰澄寺)の生まれ。幼い頃より土泥で仏像を作り遊ぶなど、宗教的天稟を感じさせる挿話が残る。仏教の布教のため彼の地を訪れた道昭が、泰澄を一目で神童と見抜き大切に育てるよう両親に伝えたという。14歳の時に十一面観音の夢告を受け、越知山の岩屋に通い峰に籠もって修行に励む。大宝2年(702)には、その呪験力が都に知れ渡り、鎮護国家の法師に任ぜられる。

霊亀2年(716)35歳の時、「天衣瓔珞(ようらく)をもって身を飾れる貴女、虚空の紫雲の中より透出し」「我が霊感時至れり(白山に)早く来るべし」との夢告を受ける。貴女は、白山比咩神社の主祭神として祀られる白山神・菊理媛尊と習合する。貴女の導きによりその翌年には、白山へ登峰、麓の大野隈・筥川東の伊野原(慈母の生地とされる)に来宿すると、林泉(現平泉寺白山神社境内の御手洗池)に来るよう貴女の夢告が降りる。
祈念を凝らして礼拝念誦していると再び貴女が現れ、「吾は伊弉冊尊なり、今は妙理大菩薩と号す」「吾が本地真身は天嶺に在り、往いて礼すべし」と告げてお隠れになった。泰澄はこれに感激し、御前峰に登拝し緑碧池(現翠ヶ池)の淵で一心不乱に加持すると、池の中から九頭龍王が出現する。「是れ方便の示現なり、本地の真身に非ず」泰澄が龍に真の姿を祈り求めると、たちまち十一面観音の玉躰が現れ、感涙溢れ湖水で顔を洗い仏足頂礼したという。

続いて左弧峰(別山)で聖観音の現身である小白山別山大行事と名乗る男神、右弧峰(大汝峰)で阿弥陀の現身である大己貴を名乗る老翁を感得する。十一面観音(妙理大菩薩)を左輔右弼する白山三所権現の示現である。随従した臥行者・浄定と共に山頂に留まり一千日の練行を積む。
養老6年(722)、勅命を受け元正天皇の病の治癒にあたり、護持僧として禅師の位を授かり神融禅師と号す。後年、行基や玄昉と相会する傍ら、流行の疱瘡を呪法によって終息させた効により、聖武天皇から大和尚位を賜り諱を泰澄と号す。77歳で下山し越知山の大谷仙窟(現朝日町天台宗大谷寺)に蟄居、86歳で入定遷化する。
泰澄の白山開山後、修行僧の修験と御師の活動が始まる。平安期には、山頂への登山道たる禅定道が、越前・加賀・美濃に拓かれ、その起点となる登拝の拠点・馬場が設置された。越前馬場は平泉寺白山神社、加賀馬場は白山比咩神社、美濃馬場は長滝白山神社がその機能を担った。

神と仏が御座す頂は、魂が「生まれ清まる」極楽浄土となり、官位福寿・智慧弁才を願う登拝者で最盛期には、「上り千人、下り千人」が行き交う賑わいを見せる。人跡未踏の峡谷に分け入り、雪渓尾根伝いに山道を辿る行程は、長く険しい修行そのものである。人一人通り抜ける心細い隘路が、鬱蒼とした深い森の奥に延々と続く。息も絶え絶えに丈の高い石段を蹴上がると不意に視界が開け、遥か遠望には雪に覆われた頂が姿を見せる。
白山神社は、津々浦々に展開し国内2700社余を数える。加えて菊理媛尊は、謎の多い女神で白山信仰のルーツを渡来系氏族に尋ねる研究者も少なくないという。ただ一つ確かなことは、泰澄が神仏習合の嚆矢濫觴を生きた「やまとの大徳」であったということであろうか。神秘の霊峰白山は、1000年の時を超えて泰澄の祈りと思いを今に繋いでいる。
(宗教新聞2024年10月10日付 816号)