災害に強い地域づくりと宗教
2024年10月10日付 816号
近年、地震や大雨による水害などの自然災害が増えたことから、災害に強い地域づくりへの関心が高まっている。人口の多少にかかわらず、全国的に暮らしと意識の個人化が進み、人々のつながりが希薄になって、かつての日本社会の強みだった共同体の力が失われつつある今、個々の事情を越えて地域づくりのテーマになれるのが「防災」という、誰にとっても切実な課題といえる。
災害の発生直後は、自分や家族の生命を守る「自助」が大前提で、その後は救助が来るまでの間、住民同士が助け合う「共助」が必要になる。昔から、遠くの親戚よりも近くの他人という言葉があるように、近所の人たちと助け合う習慣をつくっておくことが大切である。そこにおける宗教の役割を考えてみよう。
神道と仏教の役割
東日本大震災の被災地で、伝統的な祭りの復活が地域共同体の再生に大きな役割を果たしたことは記憶に新しい。人類史的に見ても、複雑な人々の思いを一つにしていく必要から宗教が発生したとも考えられる。青森県にある縄文時代の三内丸山遺跡の集落の中央にあった大きな木のタワーも、何らかの宗教的施設と考えられている。そうした古来からの日本人の宗教的心性が、渡来の世界宗教である仏教に触れ、自らを神道と認識し、仏教の思想や論理、建築などの表現法にならい、今に至る神社の形式を形成してきたのである。
縄文時代からの自然観や世界観の上に仏教が受容されたことで、日本の宗教は当初から神仏習合であった。例えば、仏教諸宗派が共通して崇拝する聖徳太子は、天才的な宗教的感性から仏教を国づくりに取り入れたのだが、皇太子として宮中祭祀を守っていたことは当然である。
西欧諸国をモデルに近代国民国家を目指した明治の日本は、西欧のキリスト教のようないわゆる市民宗教が日本にはないため、神社神道をもってそれに代えようとした。例えば、山県有朋が進めた地方自治では、人々の成長段階に応じた神社参拝を取り入れ、疑似的な祭政一致を実現した。江戸時代までの、藩が国であった日本人を、日本の国民に育てるためである。とりわけ、欧米列強の植民地化を防ぎ、国力を越えた戦争に勝つには、徴兵制の実施と共に国民の育成が最大の課題であった。
興味深いことに、その国民教育に大きな力を発揮したのは仏教、とりわけ浄土真宗で、明治の宗教政策をけん引するとともに、いわゆる戦時教学により、門徒らを鼓舞し、戦場に赴かせたのである。これは一向一揆の歴史とも重なる。戦後、浄土真宗の宗派の多くが反政府的になったのは、そうした戦前への反動であり、戦争協力の歴史が深く反省された。
しかし、宗教社会学的に見ると、神道が社会全体の空気を形成し、仏教が個々人の生き方を深めさせたのは、神仏習合の特徴的な形態であった。それが日本人の歴史的に培われてきた宗教性であり、被災地を復興させる祭りにも通じている。
仏教とりわけ大乗仏教の教えは、浄土真宗の二種回向に集約されている。往相と還相で、浄土に行って阿弥陀如来に救われ、救われた立場で現世に帰り、衆生を救うという教えである。大乗仏教が目指した利他は、これにより完遂される。いくら人のために生きようとしても、個人的感情のままでは限界があるが、阿弥陀如来に救われた身だとすると、分け隔てなく尽くすことができる。東工大未来の人類研究センターで「利他プロジェクト」を主導してきた中島岳志教授にならえば、心より体が先に動く「思いがけず利他」の境地である。
分かりやすく言うと、人々の公的面を担当するのが神道で、私的面を担当するのが仏教で、それゆえ、家の中に神棚と仏壇があるのが自然なのである。災害に強い地域づくりには、神社は祭りなどの公的行事を振興し、寺は個々人の内面を深める、学びの場になることが求められている。
今はやりの終活も、遺産相続などの事務的な面だけでなく、「メメント・モリ」死を思うことで生を深める営みが必要であろう。人は内心の深い動機がないと、自然に体が動くことはないからである。
持続的な生き方を
温暖化など地球規模の環境危機を乗り越え、人類が持続的な生き方を見いだすには、縄文人の心性と大乗仏教の融合から生まれた、「草木国土悉皆成仏」の本覚思想によるしかないというのが、梅原猛の結論であり遺言でもあった。インドで生まれた仏教は、中国を経て日本にたどり着き、完成したとも言えよう。それこそが仏教東漸の意味なのかもしれない。
その世界史的な営みを、それぞれの地域で実践していると考えれば、私たちの地域づくりは人類史的な意味を有しているのである。そんな稀有壮大な思いを心に、それぞれ利他に生きることが、災害に強い地域づくりにつながっている。