瀧尾神社の神輿が泉涌寺に参入
連載・京都宗教散歩(35)
ジャーナリスト 竹谷文男

京都市東山区にある瀧尾神社(佐々貴信美宮司)は9月29日、神幸祭を斎行し、女神輿と男神輿の2基が街に繰り出した後、京都市東山区の泉涌寺(せんにゅうじ)に参進して、仏殿前の広場で神輿の差し上げを奉納した。参加者や地元の人たちは、江戸時代に見られるような極めて珍しい神仏習合の祭礼を目の当たりに堪能した。
瀧尾神社からまず、剣鉾(けんほこ)と纏(まとい)、次いで神輿2基が鳥居をくぐって渡御に出発し、街を一巡した後、泉涌寺に参進した。泉湧寺は、皇室の菩提を弔う寺で地元では「御寺(みてら)」と呼ばれている。仏殿内部には、過去、現在、未来の仏の姿をそれぞれ示す本尊の釈迦如来と阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏が並んでいる。三世仏が並列する様式は日本では珍しいが、宋では盛んだった。
仏殿前の広場には泉涌寺からの供え物が置かれ、黄色の袈裟を着た6人の僧侶が立ち並んで般若心経を詠み上げる中、女神輿と男神輿が順に担がれて入ってきた。仏壇の前で神輿の差し上げが奉納され、「ホイットー、ホイットー」という威勢の良い掛け声が、低い読経の音に和して東山の一嶺であるここ月輪山のふもとに響き渡った。
神輿の差し上げのほか、剣鉾差し、纏振(まといふり)も奉納された。剣鉾は、祭具である鉾の一種で、長い棹の先に薄くてよく撓(しな)る剣が付けられている。剣の刃先は菱形をしていて、棹には鈴がつけられている。剣鉾は、剣の振れ幅と鈴の響きによって周囲を浄めるとされ、神輿巡幸の先陣を切って天を指すように立てて運ばれた。

佐々貴宮司は、「当社の神幸列が泉涌寺に入って仏殿で奉納するのは、平成11年に始まりました。江戸時代に行われていた文献はありませんが、奉納された絵馬にはそれが描かれています」という。
神仏習合の時代のように、瀧尾神社が泉涌寺で神輿の差し上げを奉納する背景には、特別な関係があるからだ。瀧尾神社は江戸時代には泉涌寺の塔頭の一つで、同寺の社僧が住んでいた。「ですから瀧尾神社にとって泉涌寺は本山のような感覚で、また皇族方を弔う高貴な寺ですから」(佐々貴宮司)。僧侶の唱える般若心経を聞きながら奉納することについては、「それによって、私たちも法楽を受けることができると考えています」と佐々貴宮司は語った。
瀧尾神社を篤く崇敬していた一人が、後の百貨店「大丸」の創始者で江戸初期の商人だった下村彦右衛門(1688~1748)。彦右衛門は行商の途中、同社に欠かさず参拝していた。そのかいあってか大丸は繁盛し、江戸末期に多額の寄進を同神社に行い整備した。祭列には火消しの纏振も参加し、纏の頭には「大」の字が大書されているのは、大丸の店舗が日本橋にあったとき、その付近の「は組」の火消しに大丸が関与していたからで、この纏振りも仏殿前に奉納された。
泉涌寺は真言宗泉涌寺派の総本山で、山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。起こりは天長年間に弘法大師が草庵を結んだのが始まりとも、また斉衡2年(855)に左大臣藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が建立した法輪寺に由来するともいわれるが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師(がちりんだいし)俊芿(しゅんじょう)だった。

俊芿律師は宋に渡って12年後に帰国し、学んだ律を基に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場として泉涌寺を再興、同律師は北京律の祖と仰がれた。この時、寺地の一画から清泉が湧き出したことから泉涌寺と名付けられた。
寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇に至る御陵があり、また寺内の霊明殿には歴代の天皇や皇后、皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。
同寺にはまた僧・湛海(たんかい)が宋から招来して、一般には「楊貴妃観音」と呼ばれる観音菩薩座像(重要文化財)が収められている。同像は練り物で整形された頭髪、豪華な冠、彩色豊かな造型など、その美しさから唐の玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造像されたとの伝承を持つ。
(2024年10月10日付 816号)