遠野の早池峯神社
連載・神仏習合の日本宗教史(28)
宗教研究家 杉山正樹
「国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」。民族学者の柳田國男が著した『遠野物語』の序文にこう記される。
『遠野物語』が刊行された1910年代は、理性と個人が重視される近代から現代への移行期にあった。1910年8月には日韓併合条約の調印、その2年後に元号が大正に改元される。列強諸国が自国の覇権争いに躍起となり、わが国は一触即発の国際情勢に翻弄されようとしていた。柳田が摘示した「平地人」とは、文明開化に沸き立ち、旧来の風習や信仰を古臭いものと考えるようになった“現代人”を指している。
『遠野物語』第2話に以下の説話が挿入される。「大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内(らいない)村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めさめてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三つの山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬みを畏れて今もこの山には遊ばずといへり」
1000メートル級の三山(早池峰山・六角牛山・石上山)に囲まれる遠野盆地は、寒暖の差が大きく冬季は豪雪地帯となる。厳しい自然との共生は、魂の来し方を語り継ぐ山の神々と霊界奇譚を育んだ。岩手県の北上山地は、太平洋プレートの影響を最も受けにくく、日本最古の地層が分布するという。早池峰一帯では、カンラン岩が変成してできる「蛇紋岩(サーペンチン)」が採取されるが、海外では魔除けとして古代より商人の旅の守護として愛用されていた。遠野市綾織町では、「続石(つづきいし)」で知られる巨石信仰も確認される。遠野三山に語り継がれる「山神山人」伝説は、あたかも縄文太古の日本人の祖霊信仰が投影されているようである。
『遠野物語』第2編の説話で女神が末娘に与えたのが早池峰山である。標高1917メートルで山頂と東西南北の4つの登山口に早池峯神社が鎮座する。このうち花巻町大迫市の早池峯神社を訪れる参詣者が多い。早池峰山頂上は、本州で真っ先に朝日が射す地点とされ、一帯は神仏習合時代から女人禁制で山岳信仰が盛んな聖地であった。
早池峯神社の主神祭は瀬織津比売神(瀬織津姫)で、謎の多い女神である。『記紀』には登場せず中臣祓詞(大祓詞)に「遺る罪は在らじと 祓い給へ清め給ふ事を 佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す 瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ」とあり、重要な祓いの業を司る祓戸四柱の主祀神に位置づけられている。「佐久那太理(さくなだり)」とは、「さく(割く)なだり(雪崩)、岩を割き滝のように流れ降る」ようと解され、急流の速瀬(滝)に坐す瀬織津比売神の御神徳から、龍神や弁財天もしくは不動明王と習合するようになる。
早池峰山に瀬織津比売神が祭祀された由緒については、通説として以下のものが知られている。「大同元年(806)、遠野の来内村の猟師・藤蔵が早池峰山にて金色光明の姫大神(後年、十一面観音に習合)に出会った。翌年、藤原鎌足の子孫・田中兵部成房(しげひさ)と共に姫大神を勧請、山頂に奥宮、麓に新山宮をお祀りする。斎衡年間(854~857年)、慈覚大師が奥州巡歴の折、山頂に宮寺を建立し妙泉寺と名づけた。これは、干天にも枯れず大雨でも溢れない池があり、民が不浄を犯せば干上がり、改心して祈ればまた湧き出したという霊地に因んでいる。妙泉寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となる」
菊池展明『エミシの国の女神』(風琳堂)は、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が東夷を行う際、三河の天白神=瀬織津姫命(機織りの神)を信奉する「おない」と呼ばれる女性を随行、東北地方に伝わる「オシラサマ信仰」との関係性を推考している。前掲書によれば、瀬織津比売神を主神として祀る神社は岩手県が最も多く、桜松神社をはじめとする24社、静岡県の20社がこれに続く。
科学文明は進む一方だが、未知のウイルスの出現と頻発する自然災害、終わりなき世界の紛争は、「現代人」に根本的なものを問うている。そして物質中心主義の世相がこれに拍車をかける。かつての日本人が、自然との共存、社会と人の生き様について何を感じ、どのように考え過ごして来たかを知ることは、これからの未来を豊かにするための“よすが”になると考える。何かを秘め、静かに佇む遠野三山を後にしながら、日本の来し方を思案するこの頃である。
(宗教新聞2024年9月10日付 815号)