化野念仏寺の千灯供養/揺れるろうそく、念仏踊り

連載・京都宗教散歩(34)
ジャーナリスト 竹谷文男

八千体の石仏が並ぶ化野念仏寺=8月24日、京都市右京区

 八千体の石仏や石塔に、ろうそくの火を供える「千灯供養」が8月24日と25日の夜、京都市右京区嵯峨鳥居本にある化野(あだしの)念仏寺(原善應(ぜんのう)住職)で修められた。石仏は、葬られて無縁仏になった人々にちなむものだ。京都市内最高峰の愛宕山から吹く風に無数の火が揺れ、参拝者たちは静かに手を合わせて亡き人の冥福を祈った。読経の音が境内に響き、闇夜に揺れる火は、経にあわせて踊る念仏踊りのようだ。かつては地蔵盆に合わせた供養だったが、現在では8月最後の土日に行われている。
 化野は、京都の西にある嵯峨野(京都市右京区)の中でも最も奥まったところにあり、奥嵯峨と呼ばれる。化野は、かつては風葬の地、その後は土葬の地だった。かつて京の人々が死者を葬る場合、一般に「野」の字で表される場所に運んで捨てた。例えば化野で、広くは嵯峨野だった。野とは「野辺送り」、つまり葬送の地のこと。
 平安時代、仏教の信仰が広まるにつれて、死者を弔う石仏や石塔が、なきがらと共に野に置かれ、埋もれるように無数に点在するようになった。化野では、縁者がなくなった無縁の石仏を明治時代、地元住民らが協力して念仏寺に集め、地蔵盆の夜に火を灯して供養するようになった。
 念仏寺は約1200年前、弘法大師が五智山如来寺を開創して付近の亡骸を集めて供養し、その後、法然上人の常念仏道場となり、現在は浄土宗の化野念仏寺、本尊は湛慶(たんけい)作の阿弥陀仏座像(鎌倉時代)と伝わる。
 念仏寺の境内に集められた石仏などは、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聞く人々になぞらえて、配列安祀された。また、空也上人の地蔵和讃にあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を思わせることから、賽の河原にちなんで「西院(さい)の河原」と呼ばれている。
 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の烟(けぶり)立ちさらでのみ住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん」と吉田兼好は『徒然草』の中で詠んだ(第7段)。化野は、愛宕山のふもとの風葬の地であったのに対して、「鳥辺山」は東山のふもと清水寺近くで、その名が示すように古くは鳥葬の地、またなきがらの焼場だった。兼好は、人の世の無常を「化野の露、鳥辺山の煙」に例えた。
 化野を奥嵯峨として含む嵯峨野は、京都市内から見ると愛宕山にさえぎられ桂川に画された西の果てにあり、魅力的な場所だった。嵯峨野を歩く時は、大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町)を起点にすることが多い。大覚寺はかつて嵯峨天皇が離宮とし、後宇多法皇が院政を敷いた場所で嵯峨御所と呼ばれ、大沢の池に月が映る観月の名所でもある。

無縁の石仏に火を供える参拝者=同上

 大覚寺から北の方角に一山越えて高雄に出る途中、かつては美しい竹やぶの中を歩くことが出来た。季語で「竹の春」と言われる秋の季節は、竹の幹も葉も鮮やかな緑が、レンガ色の赤土に映えていた。当時、観光用に造られた竹林は皆無だったが、手入れが行き届いた素顔のままの美しい竹やぶはあちこちに広がっていた。
 大覚寺から東に歩くと、広沢の池近くの後宇多天皇陵に行き着く。御陵はよく手入れされた竹林の中にあって、かつてはその中に足を踏み入れると野ざらしのままの石仏が何体も赤土や竹の枯れ葉の中に半ば埋もれていた。石仏の表情は風雨によって消しさられてはいたが、幼児のような外形と大きさから、石仏であることは見て取れた。竹やぶの中に石仏が無造作に散らばっていたその風景は、平安、室町、あるいは江戸時代からほとんど変わっていなかったはずだ。嵯峨野は人々が亡骸(なきがら)を、古くは置き去りにして風葬とし、後には土葬にし、石仏が供養のために置かれたものだったからだ。
 この御陵の北には、竹やぶの斜面を巻くように細い山道が左右に分かれ、「右 長刀坂 左 愛宕道」と太い字で彫られた石柱が立っていた。左の道を進むと愛宕神社への途中に、化野を通ることになる。
 かつて嵯峨野を散策すると、化野に石仏が集められるよりずっと以前の嵯峨野の原風景に出会うことがあった。

 あだし野に
 経の声聞く
 石ぼとけ
 無縁の人の
 弔いと
 灯すろうそく
 手を合わせ

 西の果てなる
 竹ばやし
 野辺に眠れる
 亡き人は
 人の情けに
 すがり来て
 一年一度の
 地蔵盆

 消してくれるな
 愛宕風
 経にあわせて
 揺れる火は
 歓喜踊躍(かんぎゆやく)の
 法悦に
 声にはならねど
 踊り念仏
      (筆者作)


(2024年9月10日付 815号)