東アジアから神戸へ「海の回廊」
連載 神戸歴史散歩(7)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久
古墳時代に大量の渡来が
2023年12月6日に放映されたNHKフロンティア「日本人とは何者なのか」は衝撃的だった。これまで日本人のルーツは先住の縄文人と弥生時代の渡来人とが混血した「二重構造モデル」が有力だったが、富山市の小竹貝塚など縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノム(全遺伝情報)を解析した金沢大学のチームは、古墳時代にも大陸から大量渡来があったことを明らかにし、同大の覚張(がくはり)隆史助教は新たに縄文人+弥生人+古墳人の「三重構造モデル」を提案していた。
3世紀から7世紀までの古墳時代は日本の古代国家形成期で、倭国大乱などを経て大和王権が統一国家を形成した。当時の大陸は戦乱が多発し、そこから逃れ、安全な地を求めて海を渡ったのであろう。中国古代史からして、彼らは既にそれぞれの宗教や文化、言語、技術を持っていた。多様で寛容な日本の宗教もそうした環境で形成されたのだろう。例えば、岡山県倉敷市にある弥生時代後期の王墓・楯築(たてつき)遺跡は前方後円墳の原点で、特殊器台祭祀により倭国大乱を鎮めたという。
約6万年前、アフリカを出たホモ・サピエンスは2万年前、東南アジアから北上し、日本列島に到達した。約9千年前までの縄文人は千人程度の小さな集団だった。約2千年前の弥生人には中国の西遼河(せいりょうが)流域に暮らす北東アジアの集団との混血がみられ、約1400年前の古墳人はさらに東アジアの集団と混血していた。縄文人と北東アジアの集団、東アジアの集団をルーツとする古墳人の遺伝的特徴が現代日本人に引き継がれているのである。(篠田謙一著『新版日本人になった祖先たち』NHK出版)
上記番組に出演していた分子人類学者の篠田謙一・国立科学博物館館長は最後に、これからゲノム解析したいのは古墳時代の人骨だと語っていた。
こうした分子人類学の成果は、東洋史学者で古代中国の資料に詳しい岡田英弘・東京外国語大学名誉教授が既に『倭国』(中公新書)で、「日本を創ったのは中国である。日本文化を創ったのは華僑である」と述べている。少し長いが、紀元前100年頃からの倭国成立の概説を同書から引用しよう。
日本列島に中国の商船が定期に来航するようになって、交易のために山から下りてきた人々や、浦々から集まってきた人々が、河口の船着き場に近い、ちょっと小高くなって増水期にも水没の心配のない所に聚落を作る。その人々の食糧を作るために、少し離れた山の谷間が開墾されて農園が出来る。やがて頭の回転が速くて中国語の弁が立つ原住民が、仲間と中国商人との間に立って斡旋するようになる。さらに取り引きの規模が大きくなり、参加する人数も多くなってくると、この仲介の機能が組織化されて、周りに囲いのある指定交易場が出現し、これを管理する世襲の酋長が出現する。このころになると、交易は港町だけに限られないで、そこから内陸へ、奥地へと伸びる交通路をたどって、中国商人から信用で借りた商品をかついだ原住民の行商人が、日本列島の隅々まで散っていき、物々交換で手に入れた商品を運んで再び港町にもどってくる。そのあいだ港町で待っている中国商人は、懇意な原住民の家に下宿したり、あるいは現地妻をもらったりして生活する。中国商人によそに行かれてはうま味がなくなるから、酋長は極力保護を加え、かたがた行動を拘束して、自分以外の原住民商人との間に抜け荷商いをさせないようにする。これによって奥地の村々は、交易のためには港町の酋長の言うことを聞かねばならなくなって、経済的にも政治的にも系列化されてくる。これが倭人の諸国の起源である。
紀元前一世紀の倭人の諸国は、それぞれ海岸や、河口や、大河の沿岸に陣取って、来航する中国の商船を迎え、後背地に対する商権を握り、時には帰り船に使節を便乗させて、漢の出先官憲や長安の皇帝に仁義を切り、自分の縄張りを認めてもらおうとしたのであった。前八二年に真番郡が廃止されると、漢の側からの貿易攻勢は弱まったはずだが、いったん始まった倭人の社会の都市化、中国化は止まらず、今度は倭人のほうからも、朝鮮海峡を渡り洛東江を遡って楽浪郡まで出かけていくことになる。それが『漢書』の「地理志」にはじめて現れる倭人の姿である。(同書44─45ページ)
倭国大乱と卑弥呼の擁立については次のようである。
黄巾の乱の余波で漢委奴国王の権威が失墜したあと、混乱に陥った倭人の諸国の間を調停して、鬼道に事える巫女卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクチュオニア( 隣保同盟=著者注)を作り上げたものは、諸国の市場を支配してたがいに連絡を取り合っている華僑の組織の力であったと考えなければ説明がつかない。ほかにそうした超政治的な力を持つものは考えられないからである。卑弥呼の即位は、中国皇帝の権威が消滅した時期に起こったことで、その点、倭人の自主的な政治的統一への第一歩であり、歴史的な意義が大きいが、それを可能にしたのは華僑であった。げに華僑こそは日本の建国者の先駆である。(同書105ページ)
吉備の温羅伝説
私が生まれたのは父・錂次郎(りょうじろう)が宮司を務めていた岡山市北区の吉備津彦神社で、岡山市西部、備前国と備中国の境に立つ吉備の中山の北東麓に東面して鎮座している。吉備の中山は古来より信仰されてきた神体山で、北西麓には備中国一宮の吉備津神社が鎮座し、両社とも、当地を治めたとされる大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を主祭神として祀っている。大化の改新後、吉備国が備前・備中・備後に分割されると、吉備津彦神社は備前国一宮とされ、中世以後は、宇喜多氏、小早川秀秋、池田氏など歴代領主に崇敬されてきた。
吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、「四道将軍」の一人として西道に派遣されたとされる。吉備津彦命が吉備平定にあたり温羅(うら)という鬼を討ったという伝承がある。これによると、温羅が鬼ノ城(きのじょう)に住んで地域を荒らしていたので、吉備津彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。この伝説が岡山県や香川県などに伝わる「桃太郎」伝説のモチーフになったとされる。
岡山には二つの温羅伝説があり、吉備津神社の『吉備津宮縁起』には次のようにある。
崇神天皇の時代、百済の王子・温羅が吉備国に飛来して新山に居城を構え略奪を行った。里人の訴えにより、大和朝廷は吉備津彦命に温羅討伐を命じた。吉備津彦命は吉備の中山に陣を構え、温羅を弓矢で攻撃し、温羅も城から弓矢で迎え撃ち、激しい戦いになった。傷を負った温羅が鯉に姿を変えて逃げたので、吉備津彦命は鵜に姿を変えて温羅を捉えた。
打ち取られた温羅の首は吉備津神社の御竈殿(おかまでん)の下に埋められたが、何年たってもうなり声が止まなかった。ある日、吉備津彦命の夢に温羅が現れ、「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、わざわいが訪れるなら、荒々しく鳴るだろう。」と告げた。これにより、御竈殿では毎年、その年が良い年かどうかを占う「鳴釜(なるかま)神事」が行われるようになった。
これに対して吉備津彦神社に伝わる『吉備津彦神社縁起』では、吉備津彦命と温羅が戦い温羅が敗れるところまでは同じだが、温羅は成敗されず、吉備津彦命に仕えて吉備国を治めたとされている。
孝霊天皇にまつわる日本最古の鬼退治の伝説があるのは鳥取県伯耆町である。楽楽福神社(ささふくじんじゃ)の由緒縁起によると昔、鬼住山(きずみやま)を根城に暴れ回っていた鬼の集団がいた。これを退治しようと孝霊天皇は南の笹苞山(さすとやま)に陣を張り、まず笹巻きの団子を三つ置いて鬼の兄弟の弟の乙牛蟹をおびき出し矢で射殺した。次に笹の葉を刈り取って山積みして風で飛ばし、兄の大牛蟹たちの体にまとわりつかせたうえで火を放つと、大牛蟹は蟹のように這いつくばって命乞いをした。大いに喜んだ里人は笹の葉で屋根を葺いた神社を作り、これが楽楽福神社の始まりという。
南北朝時代の14世紀に成立した『神皇正統記』に、秦の始皇帝が長生不死の薬を求め、日本に徐福を派遣したのが孝霊天皇の治世だったとある。李氏朝鮮で1471年に書かれた『海東諸国記』にも孝霊天皇即位72年壬午、秦の始皇帝に遣わされた徐福が仙福(不老不死の薬)を求めて紀伊まで至り、死後に土地の人から神と崇められ祀られたとある。
孝霊天皇を含む第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称され、治世の長さが不自然なことや、7世紀以後に一般的になる父子間の直系相続であること、また宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないことなどから、実在が疑問視されている。しかし、何らかの歴史的事実を背景として創作されたと考えるべきだろう。
当時の時代背景からすれば、温羅伝説も大陸・半島との交流から生まれたのであろう。交流には逃亡も含まれるが、多くは岡田英弘の言うように交易という経済活動であろう。青森の三内丸山遺跡を見ても、縄文時代は想像以上に舟による交易が盛んで、それはヒスイや黒曜石の分布で実証されている。それが弥生時代後期から古墳時代にもなれば、航海技術もさらに進歩していたはずで、商売熱心な中国人が日本列島に来ていたことは容易に想像できる。
もう一つ見逃せないのは、温羅が製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人だとする伝承である。吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉があるように古くから鉄の産地として知られ、阿曽媛の出身地の阿曽郷(鬼ノ城東麓)には製鉄遺跡も見つかっている。また、鬼ノ城から流れる血吸川の赤さは、鉄分によるものともされる。
灌漑設備を要する水稲も鉄製農具があったから可能になった農法で、水田の広がりと鉄器の普及とは軌を一にしている。各地の鉄の技術を持つ集団の氏神とも思われる神社が多くあり、その広がりは日本列島の水田の伝播を示している。
淡路島の鉄器遺跡
淡路島の西側海岸から3キロの丘陵地にある淡路市黒谷には弥生時代後期における列島最大規模の鉄器生産集落だった五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)がある。遺跡は工房として使われた竪穴建物23軒から成り、うち12軒から鉄を加工した鍛冶炉跡が確認され、鏃、鉄片、切断された鉄細片、朝鮮から輸入した鉄の素材の鉄鋌など75点が出土している。石槌や鉄床石、砥石など鉄を加工する石製工具も出土している。住居ではなく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である。
弥生時代後期の鉄器は古代国家形成の鍵の一つで、五斗長垣内遺跡は「倭国大乱」が起きた2世紀後半からの100年間に活動し、忽然と消えた。武器から農具まで鉄器の需要が絶えることはないので、適地を求めて工房を移したのであろう。
近年、出雲や吉備などで遺跡や古墳の発掘が進み、弥生時代後期から古墳時代にかけての実態が明らかになりつつある。そこで注目されている一つが、2世紀中頃の墳丘墓群のうち、もっとも早い時期に築かれ飛び抜けた規模や内容をもっている倉敷市の楯築遺跡(楯築墳丘墓)である。発掘にもかかわった国立歴史民俗博物館の松木武彦氏は、楯築に埋葬されている人(王)は「吉備程度の領域の王にとどまるような存在ではなく、中国との関係を背景に列島一円に声望をとどろかせた人物とみていいでしょう。…さらには、のちのヤマト王権の王たちに記憶され、その古墳の要素や形に参照された地位者であったことは間違いありません」(2023年の「楯築ルネッサンス資料集」より)と述べている。
楯築遺跡は弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓で、直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に、北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、突出部両端の全長は72メートルあり、同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片で、特殊器台祭祀が行われていたことを示している。
20世紀末まで前方後円墳の母体は大和と吉備とされていたが、畿内にはその時期、有力者の墳墓は築かれておらず、大阪弥生文化博物館の禰冝田佳男館長は「古墳出現にあたり、キャスティングボードを握ったのが吉備の勢力であったことに間違いはありません」と述べている。(前掲資料集)
それは、楯築遺跡から出土した特殊器台・特殊壺が箸墓古墳から出た埴輪の原型であることが明らかになったからで、楯築での特殊器台祭祀が2世紀後半の倭国大乱を鎮めたとされることから、卑弥呼の邪馬台国は吉備にあったとの説が岡山では高まっている。今の姫路市あたりで吉備国と境を接する播磨国は大和と吉備との接点に位置し、海路や山陽道を介して活発な往来があっただろう。吉備に生まれた私が播磨に移ったのも、歴史の導きなのかもしれない。
(宗教新聞2024年9月10日付 815号)