『火車』『理由』宮部みゆき(1960~)
連載・文学でたどる日本の近現代(49)
在米文芸評論家 伊藤武司
普遍的なテーマ
宮部みゆきは昭和35年、東京都江東区のサラリーマンの家庭に生まれた。エッセー集『平成お徒歩日記』によれば、深川に生まれ育った生粋の四代目である。子供のころ奇怪小説を読み、10代に入っては永井路子や山本周五郎、ミステリーを愛読した。高校卒業後、法律事務所で和文タイプからワープロを体験し、速記術を習得。かたわら投稿し始めた作品が好評を博し作家を目指す。
27歳の短篇『我らが隣人の犯罪』で作家デビュー。オール讀物推理小説新人賞を得て、1980年には『魔術はささやく』が日本推理サスペンス大賞を受賞した。以後今日まで、宮部は人気作家を維持している。それは質の高い作品を送り出し、作品のテーマに人々が普遍的意味を見いだしているからだろう。作品の映画化、テレビ、ラジオのドラマ化やアニメ、英語・スペイン語訳にも広がっている。
会話をふんだんに使うストーリーテラー調の文章は読みやすい。藤沢周平ばりの時代小説、ファンタジー・SF、怪談ものもあるが、一番味わい深いのはサスペンス。特に社会派推理小説のジャンルに快作や秀作、ロングセラーが多い。
『レベル7』は、謎の言葉を残して失踪した女子高生と二人の記憶喪失者の二つの話が並行して進むミステリー。平成3年の長編『龍は眠る』は日本推理作家協会賞を受賞。同年には短編集『本所深川ふしぎ草紙』があり、深川を舞台にした時代小説。吉川英治文学新人賞を獲得。
11篇の短編集『長い長い殺人』は財布にまつわる連続殺人の推理小説で150万部のミリオンセラーに。山本周五郎賞を獲得した『火車』は平成4年、『理由』は同10年の発行。41歳での『模倣犯』は大長編で、連続殺人事件は解決したが、新たな殺人が挑発的メッセージを引き金に起こる。陰湿な愉快犯の出現など人間性に潜む悪の性情が暴露される。毎日出版文化賞特別賞・司馬遼太郎賞・芸術選奨文部科学大臣賞の3冠に輝き、総発行部数400万部を超える大ベストセラーになった。
『ブレイブ・ストーリー』は小学生が主人公のファンタジー冒険物語。長編『楽園』は、超能力を有つ少年が12歳で事故死し、彼が最後に描いたトラックの絵をきっかけに始まるミステリー。長編『英雄の書』は、夢みる少女・友里子(ユーリ)を中心に、殺傷事件で失踪した兄を探しに異次元の世界へ入りこむファンタジー作品。
杉村三郎シリーズは、私立探偵の杉村三郎や警察が事件の捜査や解決にからむエンタメ的社会派ミステリー。平成15年の『誰か Somebody』は、平穏な日常生活に突然起きた事件から人間生活の深層や背後を映しだす。青酸カリ連続殺人をあつかった『名もなき毒』は、吉川英治文学賞受賞。バスジャックの『ペテロの葬列』。四つの中編『希望荘』で杉村は、妻と離婚後、探偵事務所を設け新しい人生に入る。さらに、自殺未遂の主婦やシングルマザーの相談に振り回される杉村の中編集『昨日がなければ明日もない』を平成30年に発刊した。
『火車』
長編『火車』は平成4年の推理小説。巻頭文が小説の成り行きを暗示している。引いてみると「火車 火がもえている車。生前に悪事をした亡者をのせて地獄に運ぶという。ひのくるま」とある。テーマは現代の消費社会の狭間で起きた「自己破産」である。バブル期の最盛期には金を借りたいと思えば、「クレジットやサラ金」が「見境なく気軽に貸してくれ」、「幸せになりたい」人間にとって金持ち気分にひたれた時代であった。バブルがはじけ、重苦しい「失われた30年」に突入した時期の作品は評判を呼び、ドラマ化され韓国でも上映された。
主人公は本間俊介。3年前に妻・千鶴子が事故死、男親の俊介と一人息子・智の男所帯で、妻との絆は今もしっかり維持している。同じマンション一階に住む井坂夫婦とは家族のような付き合い。
物語の幕開きは、妻の甥・栗坂和也が本間のマンションに来て、一年半前に知り合って結婚を約束した関根彰子が、挨拶の言葉もなく忽然と「消えちまった」という。内密に捜索を頼まれた本間は「本庁の捜査一課刑事」。強盗事件で「膝を撃ちぬかれ」、療養の今は休職中である。消えた意味はなんだろうか?と興味を抱いた彼は、私人としてならばと、彼女の素性を追跡することを約束。
ところが捜査には精通している刑事であっても、「公務ではない」人探しのため、刑事の「黒い手帳」を見せることができない。聞き込みでは先方から怪しまれるなど苦闘の連続、あげく同僚刑事の助けを受けるはめに。捜索は関東圏から名古屋・大阪方面へと広がる。そこから「他人の籍を盗み、身分を偽り、それが露見しそうになると、目前の結婚を蹴って逃げだしている」状況が判明。すなわち、「執拗に彼女を追跡しているものから、必死で逃げている」「逃亡者」のイメージが浮かんできた。結局、「関根彰子」を名乗る「本城喬子」という別人が「親の借金のため地獄のような生活を強いられ」ていた過去が明らかになる。
彰子は多重債務で自己破産者、喬子は容赦なく返済を迫るサラ金業者から「逃亡生活」をする身。和也の婚約者の失踪は結婚問題ではなかった。彰子が殺害されたと推定される証拠がそろうと、彰子と幼なじみの本田青年も探索に加わる。
クライマックスは二つ。「本城喬子」の素性がようやく割り出され、本間の刑事魂に気迫がみなぎる第27章と、圧巻は最終章の喬子との出会い。「間違いない。彼女だった」。「やっと捜し当てた。…やっとたどりついた」。彼女は「パウダーブルーのフードつきコート」をひるがえして、銀座のイタリアン・レストランに現れたのだ。
本城喬子の人生の悲劇は、本来は犠牲者であった彼女が生き残るために犯罪に手を染め加害者に転落したこと。小説全体の放つオーラに凶悪さはないが、嘘を重ねながら次第に犯罪者に変身する過程には背筋が寒くなり、ラストの息詰まる情景がいつまでも心に焼きつく。
推理小説の世界は、刑事の活躍が光る松本清張の『点と線』や、髙村薫の『マークスの山』のように犯罪者の目線で筋をたどる小説から、物理的トリックで謎につつまれた犯行をあばく東野圭吾まで実に多様多彩。宮部スタイルは、祖父母から子供にわたる家族の暮らしぶり、紐帯・いさかいなどの愛憎がこまかに表現され、難しい用語・語彙をつかわず、女性的でデリケートな描写が心地よい。
『理由』
朝日新聞に長期連載された推理小説『理由』は平成11年発行の著者執念の一作である。これまで5度直木賞候補に挙がり、6度目にして選考委員満場一致で受賞にこぎつけた傑作だからだ。
小説の舞台は阪神・淡路大地震の翌平成8年。高度成長が続きバブルの絶頂期を過ぎて崩壊の兆しのみえた頃で、荒川区内に「管理人常駐型」の大規模な「千住北ニューシティ」が誕生したのは28年前のこと。
この小説が人々の心をとらえたのは、都市生活の一見華やかなイメージとは裏腹に、孤独や利己欲で凝固された人間の厳しい現実世界を晒し、無機質の空間の片隅で起きた殺人事件に無情でいられる、砂漠のような現代社会に光を当てたからだろう。物語にはざっと80人が登場し、4人の殺しの事件の真相や関連する人物たちの経緯を第三者の目線で評したり、「評論家」的視座からドキュメンタリー的に小説をリードし、当事者自身の回想もそえるという特徴を備えている。
雷雨の伴う土砂降りの6月2日の深夜、地上25階建ての「高級マンション」20階で殺人事件が起きた。4LDK「2025号室」は以前から「人の出入りが激しい」「落ち着きの悪い」部屋で、転売目的の最初のオーナーは1年で手放し大損、バブルの崩壊で分譲価格は急速に落ちこんでいた。新たなオーナーとなった小糸家も「ローンが払えなく」なると銀行が差し押さえ「競売にかけられ」、一家は夜逃げし、夫婦は離婚となった。
警察への通報は異なる二つの情報が錯綜し、住民たち・管理人・駆けつけた警官らが混乱する。中でも管理人・佐野は住民名簿を預かる立場からパニックになった。まもなく部屋で男2人と女の3人の死体とベランダから落下死した4人が発見され、所轄の荒川北警察署に「荒川区内マンション一家4人殺し」捜査本部が設置された。事件の一報がテレビのニュースに流れ、「千住北ニューシティは日本でいちばん有名なマンションになった」。
序盤で小説全体を暗示する話や事件を短く挿入し、深部へ一歩ずつ分け入るというのが著者の筆運びの基本的スタイルである。『理由』の緒文は次のよう。
明治の中頃から簡易宿泊施設として開業してきた「片倉ハウス」の長女、中一の信子が、一家四人殺しの重要参考人らしき男がハウスに泊っていることを交番に告げに来た。それが石田直澄であった。バスケットボール部に属す信子はいつもの活発な様子とは違い、どこか動揺している様子であった。
このように外堀を埋め本丸を攻める方法は『火車』の長編でも大いに活かされている。
いつの時代にも説明不可解な事件が起きると、人々の間に幽霊譚や奇怪現象として喧伝される。小説の流れは殺人事件が起きたマンションを拠点に、オーナー、貸借人、管理会社、金融業、不動産業者、競売人、占有屋、失踪者、不法占拠者、各種報道機関とワイドショー、弁護士、捜査当局ら社会の多岐な人間関係と組織の間隙に、目撃情報や噂やデマ、事実などがからみ複雑な様態に肥大していった。物語の行方にスピード感が加わり緊張感が張りつめてくるのは、第5章「病む女」に入ってから。
当初、逃亡中の石田直澄は、事件最大の被疑者であった。が、4か月後、警察に出頭し人を殺していないことが証明される。彼は業者から体よく騙され競売物件・2025号室の「売受人」になった被害者でもあったのだ。
次に室井聡子と矢代裕司の男女のもつれた関係がある。矢代は聡子が赤ん坊を生んでも結婚を拒絶する無情な青年。風雨の吹き荒れる真夜中、同居中の3人を殺害したのは矢代で、その現場をかけつけた石田が目撃していた。冷徹な矢代にとって、一緒に住む赤の他人を始末するなどは何の抵抗もなかった。凄惨な場に気の動転した石田と矢代が対峙しているところへ、一歩遅れて赤ん坊を抱いた恋人の聡子が現れた。矢代と聡子の口論が激化し、聡子がベランダから矢代を偶発的に突き落としてしまったのだ。
「逃げる家族」第5章では、2025号室の小糸ファミリーが借金まみれで夜逃げをする経緯が説かれている。長男孝弘は、家族のだれからも孤立し哀れな立場にある。
入れ替わりに不法入居したのが「占有者」の砂川信夫、里子、息子の毅、車イスの年寄りトメのファミリー。事件で死んだ当事者の4人だが、実際は違っていた。砂川里子と毅とトメは埼玉県大宮市に10年来住んでいることが判明。殺された人間は「砂川信夫と身元不明の3人の寄り合い所帯」だったのだ。
第14章「生者と死者」は砂川家の家族歴がひもとかれてゆく。15年前に信夫が「蒸発」してから、残った里子・毅・母親トメの親子三人で支えあう赤裸々なくだりはせつなくも感動的な話である。
他に印象的なのは、第18章「綾子」の室井綾子・康隆の姉弟愛。崩壊寸前の片倉家に触れ、石田とのやりとりで身元不明の3人が明らかになる第19章「信子」は間違いなく胸がしめつけられるシーンである。
結末の二つ「逃亡者」「出頭」の章は、無実が証明された「石田直澄の長い長い話」。すなわち、「事件の真相」を知る唯一の証言者がインタビュアーの質問に答え、告白する。すべてが解決したあともマンションの住民たちの間では「千住北ニューシティのウエストタワーには、幽霊が出るという」噂が消えなかった。
『火車』と『理由』はいずれも宮部の代表的な社会派ミステリー。異なる家族を様々により分け、無数の人間の精細な心理を多面的に表現する小説のテクニックを基準にすれば、複雑な事件をすっきりと昇華させた『理由』が一歩抜け出ていると評したい。
各種文学賞の選考委員も兼ね、創作活動に勤しむ宮部みゆきのエネルギッシュな生活スタイルにエールをおくりながら今後の活躍に期待したい。
(2024年9月10日付 815号)