板垣退助/自由民権運動を推進

連載・愛国者の肖像(22)
ジャーナリスト 石井康博

先祖は信玄の重臣
 板垣退助は天保8年(1837)4月17日に土佐藩上士、乾正成の嫡男として生まれた。板垣の祖先は甲斐・武田信玄の重臣・板垣信方とされる。子供の頃は喧嘩大好きで勉強が嫌いだったが、乳飲み子を抱えた女性が家に物乞いに来た時、姉の着物を無断で与えてしまうという優しい側面もあった。姉が怒ると、母は板垣がいずれ我が家の家名を高めるだろうと言い、逆に褒めたという。後藤象二郎は幼いころからの親友で、毎日のように一緒に遊んだ。

板垣退助

 前藩主山内容堂の下で藩政改革に着手していた吉田東洋に見出された板垣は、文久元年(1861)に江戸留守居役兼軍備御用として江戸に出た。阿波出身の若山勿堂(ぶつどう)から儒学と兵学を習い、土佐勤王党と交流し、尊皇攘夷の考え方に傾倒していく。文久2年には山内容堂の御隠居様御側御用役となり、側近として仕えた。一度土佐へ戻った時に、中岡慎太郎と国の将来について深く語り合ったという。元治2年5月に再び藩命で江戸へ兵学修行に出ると、オランダ式騎兵術を学び、他藩の武士と交流して世の動静を探っていた。薩摩藩の吉井友実と交わり、水戸浪士から水戸学を吸収した。
 慶応2年に坂本龍馬の尽力で薩長同盟が結ばれ、第2次長州征伐で長州藩が勝利すると、薩摩藩はいよいよ倒幕に舵を切るようになる。そして、土佐藩と薩摩藩の間でも話し合いが行われ、同3年5月、板垣は京都で中岡慎太郎らと共に西郷隆盛、吉井友実と薩土倒幕の密約を結んだ。山内容堂はこの密約を了承し、板垣は倒幕のために軍隊を近代化し戦いに備えていく。
 同年10月に大政奉還がなされ、12月に明治天皇は王政復古の大号令を発した。そして慶応4年(1968)に鳥羽伏見の戦いが始まると、京都にいた土佐藩の部隊は薩摩藩との密約通り参戦した。板垣は大隊司令として迅衝隊(じんしょうたい)を率いて高松を攻略、降参させると、東山道(中山道)を進軍し、甲州へ向かう。そこで乾姓だった板垣は、先祖が信玄の重臣・板垣信方であることから、姓を板垣に変えた。甲府では、近藤勇が率いる幕府軍と交戦し、近代兵器に精通していた迅衝隊の圧倒的な勝利に終わった(甲州勝沼の戦い)。江戸無血開城の後は東北へ転戦、会津藩との戦いで戦功を立てた。その時、藩士だけが戦い、人民はすべて逃走したことから身分制度に疑問を持つようになったという。戊辰戦争の勝利の後、10月に板垣は東京に凱旋した。
 板垣は土佐藩の陸軍総督に任命され、家老格となり、明治2年には新政府の参与に任命される。同3年には高知で知藩事山内豊範の名で「人民平均の理」を布告、四民平等を訴え、国民皆兵の道を開いた。同4年には薩摩、長州、土佐が連携して政権を強化、藩兵を献上して御親兵を創設。同年7月に廃藩置県の詔が発せられ、板垣は参議に任ぜられた。 

板垣死すとも
 明治4年11月に岩倉使節団がアメリカとヨーロッパへ向かい、同6年に帰国すると、征韓論に始まった西郷隆盛と岩倉具視、大久保利通らとの政治闘争が起こる。板垣は西郷を支持したが、政争に敗れ、西郷と共に辞表を提出し下野した。(明治六年政変)
 その後、板垣は同7年に江藤新平、後藤象二郎らと愛国公党を結成し、左院に民衆により選ばれた議会の設立を求める「民撰議院設立建白書」を提出した。政府には時期尚早と見なされ、却下されるが、新聞にも取り上げられ、論争が展開されたのが自由民権運動の出発点である。同8年の大阪会議から板垣は参議に復帰、4月には明治天皇より「立憲政体樹立の詔」が発せられた。

「板垣死すとも自由は死せず」安倍晋三元首相書

 だが、左大臣の島津久光を巻き込んだ三条実美、岩倉具視との政治闘争に敗れ、同年10月に再び下野し、以後は国会開設を求める運動を展開していく。西南戦争時には、西郷が軍を使って政府に対抗したのに対して板垣は、今は言論を使って戦うべきだとし、自由民権運動を継続し、全国各地で演説をして回った。同14年に帝国議会を開設するという「国会開設の詔」が出されると、自由党を結成、総理(党首)となる。
 同15年(1882)4月6日、板垣は東海道遊説の途中、岐阜県厚見群富茂登村で懇親会を開いた。終わった直後、愛知の小学校教員・相原尚褧(なおふみ)が突然板垣を襲撃し、計7か所を刺す。岐阜遭難事件である。この時、板垣は相原を睨みながら「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ。この言葉が名言となり、新聞を通して世に広まっていく。幸いにも命を取り留めた板垣は全国で一気に人気が高まり、板垣の写真が売り切れになるなど一種の社会現象となった。明治天皇は板垣を気遣い、すぐに岐阜に勅使を派遣し、300円を下賜した。板垣はその聖恩に涙したという。
 同20年には板垣は伯爵として華族に列せられる。四民平等の理想を掲げる板垣は辞退しようとしたが、陛下に対して不敬に当たると説得され、受け入れた。また、同22年には板垣を襲撃した相原の恩赦を嘆願し、認められた。出獄した相原は改心し板垣邸を訪れ、板垣に心から謝罪した。
 明治22年に大日本帝国憲法が公布され、翌23年には第1回衆議院議員総選挙が行われた。板垣の自由党の流れを汲んだ、大同倶楽部(54)、愛国公党(36)、自由党(17)がそれぞれ議席を獲得した。三党は立憲自由党を形成し、政府と対抗する勢力となり、その後また自由党に名称変更し、板垣が党の総理となった。板垣は再び政治の表舞台に戻ってきたのである。
 日清戦争の直後、明治29年(1896)に伊藤博文は自由党と軍拡と国力養成のために提携、板垣は第2次伊藤内閣に入閣し、内務大臣となった。また、同31年に自由党は対立と提携を繰り返してきた大隈重信の進歩党と合同し、憲政党を組織した。6月には大隈と板垣に組閣の大命が下る。そして、大隈が首相、板垣が内務大臣の隈板(わいはん)内閣が成立した。ついに日本初の政党内閣ができたのである。その後、板垣の後を継いで、星亨が旧自由党系の指導者となるが、星は伊藤博文と提携し、旧自由党系の人々を引き連れて伊藤博文を総裁とする立憲政友会を結成する。その時板垣は伊藤に道を譲り、政界から身を引いたのだった。
 その後も板垣は台湾人を平等に扱うための台湾同化会(後に台湾議会に発展)を設立。相撲の振興に力を注ぎ、第一次護憲運動にも参加するなど、積極的な活動を行った。大正8年(1919)7月16日、肺炎のため薨去。享年82。
 天皇の下に国民全て平等であると信じ、実践した人生だった。長い間続いた身分制度を変えて、急速に民主主義の国にするため、全国を遊説してそれを実現した。板垣の功績は極めて大きいと言えよう。
(宗教新聞2024年9月10日付 815号)