海がつくった日本
2024年8月10日付 814号
7月15日(第三月曜日)の海の日は、明治9年に明治天皇が東北・北海道をご巡幸され、7月20日に横浜港に帰着されたのを記念し、昭和16年に「海の記念日」として制定されたもの。海の恩恵に感謝し、海洋国家日本の繁栄を願うという趣旨から、海がつくった日本を考えてみた。
昨年12月6日のNHKフロンティア「日本人とは何者なのか」は衝撃的だった。これまで日本人のルーツは先住の縄文人と弥生時代の渡来人とが混血した「二重構造モデル」が有力だったが、富山市の縄文、弥生、古墳時代の遺跡から出土した人骨のゲノムを解析した金沢大学のチームは、古墳時代にも大陸から大量渡来があったことを明らかにし、新たに縄文人+弥生人+古墳人の「三重構造モデル」を提案していた。
東洋史学者で古代中国に詳しい岡田英弘・東京外国語大学名誉教授は『倭国』(中公新書)で、「日本を創ったのは中国である。日本文化を創ったのは華僑である」と述べている。長崎県壱岐島にある原の辻遺跡(はるのつじいせき)は、弥生時代前期から古墳時代初期にかけての大規模環濠集落で、大陸や半島との交易の跡が残されている。
まれびと信仰
前掲書には、「紀元前一世紀の倭人の諸国は、それぞれ海岸や、河口や、大河の沿岸に陣取って、来航する中国の商船を迎え、後背地に対する商権を握り、時には帰り船に使節を便乗させて、漢の出先官憲や長安の皇帝に仁義を切り、自分の縄張りを認めてもらおうとしたのであった。前八二年に真番郡が廃止されると、漢の側からの貿易攻勢は弱まったはずだが、いったん始まった倭人の社会の都市化、中国化は止まらず、今度は倭人のほうからも、朝鮮海峡を渡り洛東江を遡って楽浪郡まで出かけていくことになる。それが『漢書』の『地理志』にはじめて現れる倭人の姿である。」とある。
倭国大乱と卑弥呼擁立については次のように書かれている。
「黄巾の乱の余波で漢委奴国王の権威が失墜したあと、混乱に陥った倭人の諸国の間を調停して、鬼道に事える巫女卑弥呼を名目上の盟主とするアムフィクチュオニア( 隣保同盟=著者注)を作り上げたものは、諸国の市塲を支配してたがいに連絡を取り合っている華僑の組織の力であったと考えなければ説明がつかない。ほかにそうした超政治的な力を持つものは考えられないからである。卑弥呼の即位は、中国皇帝の権威が消滅した時期に起こったことで、その点、倭人の自主的な政治的統一への第一歩であり、歴史的な意義が大きいが、それを可能にしたのは華僑であった。げに華僑こそは日本の建国者の先駆である。」
強力な大陸国家から適度な距離で海を隔てた日本は、列島内での争いを最小限に抑えながら、先進的な文化・文明を取り入れ、それを自家薬籠中の物とし、発展してきた。これ以上東には進めない地理的条件から、列島に集まった人たちは仲良くするしかなく、共生・協働の倫理を深化させてきたのであろう。
それを可能にしたのが、卑弥呼的シャーマンの伝統を継ぐ皇室の宮中祭祀で、精神的、霊的中心が揺るがなかったため、仏教のような普遍宗教も受け入れ、国づくりの教えとして土着化させることができたのである。日本古来の神道も仏教と出会うことで姿形を整え、神仏習合の日本的信仰を形成した。
興味深いのは、各時代における国際化の先頭を切ったのが皇室だったことである。例えば明治天皇は、軍服姿で国民の前に姿を現し、立憲君主国という国民国家を身をもって示された。さらに昭憲皇太后は進んで洋装し、国際赤十字運動の先頭に立たれることで、世界の潮流に合わせながら、明治天皇の国づくりを皇后として助けられた。
こうした日本人の特性は、民俗学者の折口信夫が提唱した、異人を異界からの神とする「まれびと信仰」に由来するとも言えよう。もちろん、外からは悪いものも来るので、例えば大和朝廷は摂津国の広田・生田・長田の3社に、新羅からの使節を接待しながら、今でいう検疫の役割をさせ、疫病などが入るのを防いでいたのである。
第三の開国
日本が危機に陥るのは、世界から孤立した時である。明治維新から50年を経過したころから、日本独自の道を模索する動きが政界をはじめ国民各層に広がり、合理的に考えれば勝つ見込みのない戦争に突き進んでしまった。
かつて安倍政権による改正教育基本法に愛郷心を盛り込んだ評論家の松本健一は、ペリー来航を第一の開国、先の敗戦を第二の開国とし、今は世界に開かれた民族の生き方、ナショナル・アイデンティティの再構築をする第三の開国の時代だとした。民主主義の理想を遠のかせるような事態が世界各地で進む中、日本が世界の希望の光であり続けるには、新たな次元での国際協調が求められていると言えよう。