海軍操練所や移民乗船の記念碑
連載 神戸歴史散歩(6)
生田神社名誉宮司 加藤 隆久
海軍操練所顕彰碑と海軍営之碑
メリケンパークの手前にあるみなと公園には石碑が二つ並んでいる。海軍操練所顕彰碑と海軍営之碑で、「海軍営之碑」の字は徳川宗家16代当主徳川家達の、碑文は勝海舟の直筆である。海軍操練所顕彰碑には「第四代兵庫県知事陸奥宗光を讃える」として「海軍操練所に学び のち 第四代本県知事となって 県政の礎を築き 後年伊藤博文内閣の外務大臣として難局に処した」と陸奥宗光を称える文章が、その左側には「ここから明治維新に活躍した大人物が多数輩出している。この浜は新しい日本の発祥の地である」との文章が刻まれている。
神戸海軍操練所は、まだ神戸港が開港していなかった江戸時代の元治元年(1864)5月に、当時、江戸幕府の軍艦奉行だった勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官の養成機関で、慶応元年(1865)まで続いた。場所は、現在の中央区新港町周辺で、京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。
18世紀末から19世紀にかけて外圧が高まってくると、長崎海軍伝習所で3年間学び、海軍の重要性を理解した勝海舟は、幕府や藩の垣根を越えた、挙国一致の海軍を作りあげるという壮大な構想を描き、人材育成の必要性を説いた。そこで、操練所とは別に海舟の私塾を作ることが許され、坂本龍馬を塾頭に陸奥宗光、伊藤博文など、後の日本を担う若者が神戸に集まったのである。
幕府の財政難から長崎伝習所が閉鎖されて3年後の文久2年(1862)、勝は軍艦奉行並みに昇進し、翌年、海軍操練所建設掛にもなった。その建設用地として見つけたのが「船たで場」のある神戸村小野浜であった。船たで場とは、木造船に付くフナクイムシを退治し、腐食を防ぐために船底を焼くための乾ドックで、呉服商の網屋吉兵衛が、私財を投じて神戸村安永新田浜の入江に建設していた。網屋吉兵衛は神戸港築港の先駆者とされている。
神戸に海軍操練所が開かれると、幕府の大坂船手組が廃止されて神戸に移管された。長崎伝習所に所属していた観光丸も大坂から神戸に移り、新たに米国製の練習蒸気船「黒龍丸」も配備された。
操練所には幕臣をはじめ諸藩の家臣や浪士、勝の私塾生らが公募により200人以上が集まった。勝は血気盛んな若者たちを、佐幕か尊王かの不毛なイデオロギー対立ではなく、航海練習を通して海外に向けさせようとしたのである。
しかし、元治元年(1864)7月19日に長州藩が京都へ進攻した「禁門の変」に、土佐を脱藩していた塾生が加わっていた責任を問われて、海舟は軍艦奉行を罷免される。そして、翌1865年には、幕府の機関でありながら反幕府的だとして、神戸海軍操練所は閉鎖されてしまった。
それから100年後の1965年、神戸港の発展のさきがけとなった海軍操練所を記念して、記念碑が建てられた。錨のモニュメントには旧軍艦の錨が使われている。本を開いた形のモニュメントは神戸開港100周年の1968年に造られ、操練所創設の由来が書かれている。
通商を求めて異国船の来航が盛んになると、幕府は御所がある京都に近い大坂湾(摂海)の防衛のため、防衛拠点に砲台建設をそれぞれの藩に命じた。兵庫県内には和田岬、湊川、西宮、今津の4か所に近代式洋式砲台が設置された。和田岬砲台は石堡搭部分が国指定史跡となり、湊川砲台は解体され、西宮砲台は円形土塁の石垣が国指定史跡となり、今津砲台は一石だけ記念碑として残されている。
移民船乗船記念碑
時代は飛ぶが、メリケンパークの一画に、「希望の船出」と題した神戸港移民船乗船記念碑がある。行先を示すかのように右手を挙げた少年と若い夫婦の銅像が当時の様子を物語っている。石川達三が1935年に第1回芥川賞をとった『蒼氓』(そうぼう)は、ブラジルに移民した貧農たちの悪戦苦闘の日々を描いた小説で、第一部の舞台が神戸の移民収容所である。「蒼氓」とは名もない群衆の総称で、社会派作家と呼ばれた石川の原点となった。
小説の始まりは1930年3月8日の神戸。「三ノ宮駅から山ノ手に向かう赤土の坂道」を駆け上がる人々の目的地は「国立海外移民収容所」で、行李や大きな風呂敷包みを背負った953人の涙と笑い、絶望と希望が交錯していた。
1929年、株価暴落によるアメリカの大恐慌は、日本にも飛び火し、昭和恐慌として人々を襲った。最大の被害を受けたのは、粟やひえなどを常食にしていた東北や北海道の農村で、地震や津波の自然災害も頻発し、冷害による凶作にも見舞われていた。絶望から人々は海外に一縷の望みを見るようになる。
日本からの海外移民は明治元年、ハワイとグアムに渡ったのが最初とされ、当時の政府は、貧困や人口増加を解決する国策として移民を奨励していた。1930年代はそのピークで、終戦直後にも一時増えたが経済復興にともない減少していく。70年ほど前のことだが、今ではもう遠い記憶になった。
(2024年8月10日付 814号)