持続可能な国づくりと宗教

 弘法大師空海の誕生日にあたる6月15日、香川県まんのう町にある満濃池の水門を開けて下流に水を送る「ゆる抜き」が行われた。田植えに向け、地元の自治体や池を管理する土地改良区の関係者らが参加する神事が、満濃池の守護神・神野神社であり、満濃池の北西岸にある真言宗善通寺派の神野寺では「ゆる抜き特別護摩」が厳修されていた。
 その後、代表者らが堤防から突き出た取水塔に移動し、ハンドルを回して水門を開けると、放水口から大きな音を立ててしぶきをあげながら最大毎秒5トンの水が勢いよく流れ出し、見守る人たちから歓声が上がった。満濃池から放流される水は、近隣の五つの市と町にある約3000ヘクタールの水田を潤す。水の管理は現在は電動式の水門だが、かつては木製の「ゆる」だったことから、田植えの時期に水門を開ける作業は今も「ゆる抜き」と呼ばれ、香川の初夏の風物詩となっている。

宗教から社会倫理へ
 空海が満濃池修築を命じられたのは、都で行った密教修法の評判が讃岐にも届き、空海の修法の威力に期待が寄せられたからという。地元の人たちの嘆願を受け、国司が朝廷に請願書を出し、それに朝廷が応じたのである。満濃池の土木工事を監督・指揮するため、空海は若い僧と4人の童子を引き連れ、故郷へ向かった。
 空海は満濃池に突き出た大きな岩の上に壇を設けて護摩を焚き、改修工事の安全・成就を願う修法を行い、渡来人の技術者や多くの人夫を使い改修工事にとりかかった。空海が用いた余分な水を流下させる「余水吐き・余水路」の仕組みや、水の圧力を分散させるアーチ型の堤は現代のダムにも採用されている。好奇心旺盛な空海は留学した唐で先進的な土木技術も学んだのであろう。
 公共事業を行う僧は奈良時代の行基が有名で、香川県には行基が作ったとされる「から風呂」や寺などが弘法大師と並んで多い。人々が参加したのは、高僧の事業に参加することで功徳を積めるとの思いからで、それが多くの庶民にとっての「救い」だったのだろう。
 人々の倫理感は、より公的なものにかかわることで向上する。身近な人のためから地域や国のためと対象が広がるに応じて、より高い倫理観が要請されるからである。それに応じるには知識や技術も必要で、公的なものにかかわりながら成長していくのが人生とも言えよう。功徳を積もうと思って空海の事業に参加した人たちは、それを通して成長する自分を発見し、喜んだに違いない。だからこそ、参加者が絶えなかったのである。
 聖徳太子が願った仏教立国は、聖武天皇による大仏造立で概成したが、それは政治的な話で、国民一人ひとりの形成は行基や空海らの社会事業が大きな役割を果たした。つまり、宗教の核心は倫理観の高い人づくりにあり、その伝統が江戸時代の鈴木正三や石田梅岩らの、山本七平のいう日本的資本主義の倫理を形成したのである。
 空海において完成された神仏習合の日本的宗教からすると、古来からのアニミズム的な信仰を宮中祭祀に進化させ、稲作の共同作業を通して地域共同体の倫理に高めた上に、普遍宗教である仏教がもたらした「救い」の概念が組み込まれ、大衆が内心を動機として地域づくり、国づくりに参加する道が整備されたと言えよう。さらに、行基や空海の社会事業に参加した人たちは、自分の救いだけでなく、先祖や子孫のために功徳を積むことを願ったので、世代を超えた倫理となったのである。

結び直す宗教
 大師信仰の広まりで興味深いのは、それを全国に広めた高野聖が念仏を唱えていたことだ。平家軍に焼き討ちされた東大寺の大仏を再建した勧進僧の重源も、人々から広く寄付を集めるために、大仏の完成予想図を示しながら南無阿弥陀仏を唱えていた。若い頃に法然から浄土教を学んだ重源にとって、人々の救済を本願とする阿弥陀仏への信仰を説くのが、庶民には一番わかりやすいと考えたからだろう。
 地域づくりや国づくりという公的なものへの参加は、人が成長する絶好のチャンスであり、成長した自分に出会える喜びの創造と言えよう。それが国民一人ひとりの内心の動機として定着していけば、この国の未来は明るくなるのではないか。
 離れたものを結び直すという宗教(リリジョン)の本来の意味からして、宗教にはその力と役割があるに違いない。今の時代に求められている宗教のあり方として、一人ひとりの心をより公的なものに向かわせる取り組みが求められている。