なぜキリスト教を禁じたのか

連載・宗教から家康を読む(6)
多田則明

静岡県伊東市にある三浦按針の銅像

 日本の戦国時代、世界は大航海時代だった。遠洋航海の技術を持つポルトガルとスペインを中心にヨーロッパ諸国がアフリカやアジアに進出し、コショウなどの香辛料の貿易、さらには領土の獲得競争を展開するようになる。これを支援し
たのがローマ教皇で、16世紀初頭から宗教改革の嵐にさらされたカトリック教会は、勢いを増すプロテスタントに対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国である両国の航海に宣教師を同乗させ、獲得した領土の住民への布教活動を開始した。コロンブスのアメリカ大陸発見やマゼランの世界一周も、こうした時代背景から生まれている。
 他のヨーロッパ諸国も海外進出を開始すると、ポルトガルとスペインはローマ教皇の仲介で1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結して世界を分割し、両国の勢力範囲を決定した。東洋の果てにある日本はほぼ境界線上のため、両国が競って進出するようになる。スペイン生まれでイエズス会を創設したザビエルが1549年に鹿児島に上陸したのも、そうした歴史のひとこまだった。
 当時の東アジアでは、日本の商人や明の中国人、そして南蛮人と呼ばれたポルトガル人とスペイン人とによる南蛮貿易が盛んになる。最大の貿易品は明の生糸と日本の銀だった。1543年には海商で倭寇でもあった王直の船が種子島に漂着して鉄砲を伝え、ポルトガル人も乗船していたことが、同国の日本進出の始まりとなる。鉄砲はすぐに日本でも製造されるようになるが、火薬の原料である硝石が国内にはなかったため南蛮貿易に頼るしかない。南蛮人がもたらす鉄砲などの武器に魅せられたのが九州の戦国大名たちで、交易の見返りに領内での布教を認めるようになった。
 宣教師たちがもたらしたのは最先端のヨーロッパ文明で、織田信長は地球儀を見てすぐに世界は球体だと理解したようだ。さらに創造主を頂点とする彼らの宇宙観を聞いて、自身をその神になぞらえ、それを可視化したのが安土城の天守ならぬ天主だった。さらに、ポルトガルやスペインの世界侵略の話を聞いた信長は、諸大名を平定した次には明の征服を構想するようになる。
 信長の後を継いだ豊臣秀吉も当初はキリスト教に寛容だったが、1587年に伴天連追放令を出す。バテレンはポルトガル語のパードレ(神父)に由来し、貿易は構わないが外国人宣教師は退去するよう命じるもの。きっかけはキリシタン大名の大村純忠がイエズス会に長崎の領地を提供していたこと、さらに同会日本準管区長のコエリョが大砲を積んだ軍船を自慢げに見せたことで、秀吉は日本が侵略されるかもしれないと恐れたのだ。
 当時、キリシタンになった日本人は20万人から50万人とされ、多くの大名も入信したことから、宗教で結ばれた一大勢力になっていた。それを宣教師が意のまま操ることに、一向一揆に手を焼いた秀吉は危機感を募らせたのである。また、キリシタンが神社や仏閣を破壊し、宣教師が日本人を奴隷として売買していたこともそれに拍車をかけた。
 秀吉が無謀な朝鮮出兵に乗り出したのも、ポルトガル・スペインの世界征服に対抗するためとの説がある。秀吉は朝鮮出兵のかなり前から明や東南アジア、インドの征服を構想しており、朝鮮出兵前後にはスペインのフィリピン総督に服属を要求する書簡を送っている。つまり、ポルトガルとスペインが明国を支配するくらいなら自分が先に征服する、というのが明への通過路としての朝鮮出兵の最大の動機だった。
 外国との交易に関心のある家康は当初、キリスト教の布教にも寛容だった。征夷大将軍になると、イエズス会などキリスト教勢力と和解し、秀吉が壊した外交関係を修復しようとする。
 1609年、フィリピン総督ビベロがメキシコに戻る途中に難破し、上総に漂着したので、スペインとの通交を望む家康は帰国のために帆船を用意した。ところが1588年、アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊をイギリス・オランダ連合軍が撃破し、スペインの覇権が揺らぎ始める。オランダがジャワを拠点に日本との通商に乗り出してきたのである。また同年、マカオでポルトガル船のデウス号と日本の朱印船がトラブルになり、日本人乗組員60人が殺された事件を契機に、キリスト教を全面的に禁止した。
 家康がそうしたのは、秀吉と同じようにポルトガルとスペインによる日本征服を防ぐためだが、もう一つは幕府がオランダと独占的に交易するためである。1600年、大分の臼杵にオランダ船リーフデ号が漂着し、大坂に回航されて、家康が検査や乗組員の尋問に当たった。
 オランダはプロテスタントの国なので、イエズス会は乗組員を処刑するよう注進したが、家康は彼らを江戸に招いた。そして、海外情報を仕入れただけでなく、オランダ人のヤン・ヨーステンや後に三浦按針と名乗るイギリス人のウィリアム・アダムスを幕臣に取り立てたのである。新興海洋国のオランダは貿易を優先し、布教にはこだわらなかったので、家康はオランダとだけ貿易をすることにした。
 これは日本にとっての幸運で、江戸時代を通してオランダは西洋文明の窓口となり、先進的な文物をもたらし、国際情勢を幕府に知らせた。当時のヨーロッパの自然科学に基づく蘭学は最先端の学問で、やがて幕末の日本を開国へと導くことになる。大坂の適塾で蘭学を学んだ福沢諭吉は幕府の使節として中国経由で訪欧し、日本には洋書を読める者が千人はいるのに、中国には18人しかいなかったことが国の発展の違いとなったと知る。
 日本がヨーロッパの植民地にならなかったのは、第一に巨大な軍事力をもっていたからで、それを海外に知らしめたのが、15万の軍隊を派遣した秀吉の朝鮮出兵だった。群雄割拠のままだと、キリシタン大名と結んだ宣教師がポルトガルやスペインに軍隊の派遣を要請し、日本を軍事支配する恐れもあったが、秀吉や家康の全国統一がそれを防いだ。
 秀吉も家康も、日本にキリスト教が不要な理由を「日本は神国であるから」としている。神国思想は蒙古襲来の時代に芽生え、神仏習合を背景に日本的なナショナリズムとなった。
 家康がキリスト教を禁教にしたのに対して、仙台藩に布教を認めることでスペインとの貿易を実現しようとしたのが伊達政宗だ。豊臣家を滅ぼした家康にとって最大の政敵は政宗で、幕府に対抗できる力を養うためスペインに派遣されたのが支倉常長である。しかし、その目的は果たせず、常長の帰国後、仙台藩もキリスト教禁教に転じ、常長は失意の生涯を閉じることになる。それを題材にしたのが遠藤周作の小説『侍』だ。
 大型船の建造を禁じ、貿易を長崎の出島に限定し、出入国を厳しく管理した江戸幕府の鎖国政策は否定的に語られることが多いが、当時の国際情勢から、日本の独立を守る正しい選択だったと言える。
 その上で、朝鮮と琉球とは国交を維持し、オランダからは通商を介して世界の情報も手に入れていた。それにより270年に及ぶ平和が続き、日本独自の文化が発展することになる。
(9月10日付 803号)