日本人がつくる社会の基本

2023年5月10日付 799号

 鳥越皓之著『村の社会学』(ちくま新書)は日本人がつくる社会、日本人の人づきあいの原点が描かれている。古代から続いてきた稲作の共同作業がその舞台となったとされるが、1950年代後半からの機械化により、農村の様相は一変した。
 その典型が田植えで、女性たちの手作業が頼りだった時代は大勢で一斉に取り組んだものだが、田植え機が導入されると、家族だけでの作業が可能になった。農家の後継者以外は都会に出て経済成長を支え、農作業者の減少を機械化が補った。
 テレビの普及など情報化で地方にも都市文化が広がり、個人主義的な生き方が進んだ。地方から都会に出た大量の若者たちが日本の宗教事情を変えたのは、宗教学者の島田裕巳氏が言うとおりである。
 しかし、それはこの50年余りのことで、古くからの日本人の人間関係は変わっていない。とりわけ地方に暮らすと、それを実感するだろう。

公平と自由
 里山がある地でも農業は自然から離れ、自然由来の堆肥ではなく化学肥料が主流になり、人が山に入ることは少なくなった。山麓の畑は耕作放棄され、竹林になるなど村の風景も変わっている。しかし、自治会活動などに参加すると、人間関係は変わっていない。というか、それが日本人の共同体の基本なのだろう。
 例えば、会社などの近代組織ではトップダウンが多いが、村では時間がかかっても、全員参加のボトムアップが原則。平たい人間関係が大事で、不公平が最も嫌われる。地域の草刈りや水路掃除などは全員参加で、欠席だと罰金があるが、高齢者には「出てくるだけでいいから」と声をかける。平等が原則だが、思いやりがそれに加わる。
 機械化で共同作業は不要になったが、近年、米価の下落や後継者不足で耕作放棄が目立つようになった。そこで1990年代から農水省が進めてきたのが集落営農。補助金により規模拡大と大型機械の導入で生産コストを下げ、集落の農業を維持しようというのである。その先に、農事組合法人の設立や株式会社でも農地が取得できるなどの政策が展開されてきた。
 集落営農の参加者は定年後の元気な高齢者が中心で、これが今、村を支える力になっている。健康なので働くのか、働くから健康なのか、健康長寿型農業というのが実感。人生100歳時代には、これも日本人の生き方の一つである。
 農水省の多面的機能支払交付金という補助金は、田んぼの整備や農道の舗装、竹林の伐採、山桜の植樹など、村の環境保全に使うことができる。民主党政権時代にできた法律に基づく補助金で、多くの失政の中で評価できる政策の一つである。
 米作が培った村の暮らしは、毎年の繰り返しで、都会と違い、時間が永遠に流れているような気がする。昔はそれが自然にできていたが、今は行政が関与して維持されるのは、それだけ人口が増え、社会が複雑になったからだ。
 宗教とは、有限な存在の人が無限につながる道、あるいは生き方と言えよう。本来、宗教は人が生きる道であり、学びや修行で終わるものではない。少年時代の道元は、「人に仏性があるのなら、なぜ修行しなければならないのか」との疑問を持ったという。僧ではない普通の人としての疑問である。そしてたどり着いた答えは、「仏性があるから修行できる」である。悟りとは到達したある境地ではなく、到達を目指すその過程にあるというのが本当だろう。
 高齢期は子育てや仕事などいろいろな役割から解放され、人として自由に生きられる時代である。自分のため、経験と知恵、人脈を生かして取り組む「自由」こそが、高齢期に最も大事なものと言える。

日本の風土を守る
 5月の連休は、地方では田植えの最盛期で、行楽地に行かなくても自然を満喫できる。地方を訪れた折には、竹林化した山裾や耕作放棄地を見てほしい。日本人と日本社会を育ててきた風土が壊れつつある。それを例えば、ランニングやマウンテンバイクのトレイルロードという現代的な手法で再生につなげたい。元気な、元気になりたい高齢者には、そんな地域で汗を流すのもいい生き方になる。
 AIなど今流行の技術は、数年後には陳腐なものになりかねない。それに比べて宗教は、千年を経ても色あせない。学べば学ぶほど知りたいことが増えるから、島田裕巳氏の言うように、高齢者にはお勧めの学びである。その実践、修行として、ゆかりある地域の風土再生に取り組んではどうだろう。

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