西周  西欧に学び軍人勅諭を起草

連載・愛国者の肖像(6)
ジャーナリスト 石井康博

西周

 西周(あまね)は文政12年(1829)、石見国(現・島根県)津和野藩の御典医・西時義の長男として生まれた。幼名は経太郎(みちたろう)で4歳の頃から父親に孝経を学び、11歳で藩校養老館に入る。そこで大変優秀な成績を修めた西は、儒学を勉強するようにとの藩命を受けた。医者である親の職業を継ぐのが一般的であった当時では異例で、後に西は養老館の教師となる。
 嘉永6年(1853)にペリーが黒船を率いて来航し、浦賀に停泊すると、津和野藩は情報収集のため、当時24歳だった西ら藩士を数名江戸へ派遣した。江戸で西洋文化に触れた西は、オランダ語や数学を学ぶようになる。26歳の時に洋学を学ぶために脱藩を決意。脱藩は重罪だが、西の優秀さを知る家老は「暇を与える」という寛大な措置で対処した。その後も洋学を学び続けた西は安政3年(1856)、幕府の洋学研究機関である蕃書調所の助手になった。
 欧米への留学を切望するようになった西は文久2年(1862)、幕府の命で津田真道、榎本武揚らとオランダに留学。ライデン大学でシモン・フィッセリング教授から法学、経済学、統計学、カント哲学などを学んだ。3年後に帰国すると、開成所(旧蕃書調所、後の東京大学)教授に任命された。また、将軍徳川慶喜の側近になり、フランス語を教えたり、我が国初の憲法草案である「議題草案」を提出したりしている。
 西が出した憲法草案は、主に徳川家中心の政体案で、西洋の三権分立を取り入れていた。行政権を将軍が、司法権を各藩が、立法権を各藩の大名や藩士により構成される議政院が持ち、天皇は現行の日本国憲法と同じ象徴としての地位になっていた。倒幕・維新により草案による政体は実現されなかったが、西欧をモデルとした画期的な試みであった。
 大政奉還の後に、西は慶喜の命で沼津兵学校の頭取(校長)に就任するが、明治3年(1870)に新政府に呼び出され、兵部省および文部省出仕を命じられた。以後、政府の高級官僚として多くの官職を歴任し、国に奉仕する。明治6年(1873)には、福澤諭吉、森有礼、津田真道らと「明六社」を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行、西は哲学書の翻訳など文筆活動を展開した。
 西の業績は実に多岐にわたり、訳語の「哲学」を考案したのもその一つ。他にも心理学、理性、感性、悟性、社会学、主観、客観、形而上学、論理学、権利などおよそ570の西による訳語が今も残り、その多くが現在の韓国や中国でも使われている。
 西のもう一つの功績は軍事関連で、徴兵制創設のほか、5か国語の『兵語辞書』を編纂し、「軍人勅諭」「軍人訓戒」を起草するなど、軍政の整備と軍の精神の確立に貢献した。いずれも、天皇陛下への忠誠、軍人としての規範、人としての道徳、組織内における和の重要性などが記され、日本人の精神として今も重要視されている。
 学術・教育の面でも、明治天皇の侍講として、博物学、心理学、英国史など講義し、東京学士会院(現・日本学士院)第2代と第4代会長を務め、獨逸学協会学校(現・獨協学園)の創立に参画し初代校長を務めるなど、日本の学術・教育分野の発展に貢献した。
 明治23年(1990)に帝国議会が発足すると貴族院議員に任ぜられた。明治30年(1897)には、それまでの功績により明治天皇から勲一等瑞宝章と男爵の位が授けられ、同年1月31日に68歳の生涯を終えた。
 江戸末期から明治期という激動の時代にあって、日本の近代化に何が必要かを考え、持てる力を最大限発揮し、国のために尽くした人生だった。
(2023年3月10日付 797号)