ロシア正教がもたらす宗教の危機

連載・宗教で読み解く世界情勢(74)
宗教問題アナリスト・小笠原員利

 ウクライナの首都キーウ(キエフ)郊外の街、ブチャで発覚したロシア軍による民間人殺害は国際社会の大きな非難を巻き起こしている。そしてついに、これまでロシア非難に消極的だったインドも、ティルムルティ国連大使が4月5日に「この殺害行為を明白に非難する」と表明し、独立した調査を要求した。
 また、ウクライナ当局は、同じくキーウ近郊のボロジャンカでブチャを上回る数の遺体が見つかったと発表。さらに別の村、ホストメリでも400人以上が行方不明となり、死亡が確認された人の遺体も見つからないという。ブチャの惨劇を「フェイク」とするロシアの主張を主に報じる中国のような国もあるが、ロシアの国際的な孤立は決定的になりつつある。
 一方、ローマ教皇をはじめ世界的影響力をもつ宗教者の立場は、政治家や学者と比べて単純ではない。世界宗教ともなれば、政治的に対立する国々の双方に信者がいることも少なくない。さらに、より宗教的な意味でも、単純な勧善懲悪の世界観に与することはできないからだ。それでもウクライナの惨状が明らかになるにつれ、彼らのトーンも次第に強さを増している。4月2日、マルタを訪問中のフランシスコ教皇は「時代錯誤の権力者が戦争を引き起こしている」と語り、名指しはしないまでもプーチン大統領とわかる形で明確な批判を口にした。
 先回、正教会内部からも、プーチン氏を擁護し続けるロシア正教会のキリル総主教への批判の声が上がっていることに触れたが、ロシア国外では、アムステルダムのようにロシア正教会を離れ、コンスタンチノープル総主教庁の管轄下に移行する動きも出てきた。3月13日には、約500人の正教会の聖職者、学者、在家信者によって、キリル氏の言説を批判する「『ロシア世界』の教えに関する宣言」が公表された。
 英紙ガーディアンはこの宣言を、1934年、ヒトラーによる教会支配の動きに抗してカール・バルトらが起草し、第1回告白教会全国会議で公表された「バルメン宣言」になぞらえている。当時のドイツではナチスの台頭とあわせ、国粋主義的な宗教運動「ドイツ的キリスト者」が勢力を伸ばし、ヒトラーによる帝国教会構想を支える立場に立っていた。偏狭なナショナリズムとキリスト教信仰を結び付けるそれらの動きに対して、バルトらは、イエス・キリストのみが唯一の主であり、ナチスを含むいかなる歴史上の出来事も神の啓示とはみなされないこと、政治的支配から教会が独立すべきことなどを強く主張した。
 現時点で、600万人のユダヤ人を虐殺したヒトラーとプーチン氏を安易に同一視することは避けるべきだろう。しかし、プーチン氏とキリル総主教率いるロシア正教会の関係が、ヒトラーと「ドイツ的キリスト者」の関係と類似した側面を持つことは否定できない。
 3月、モスクワでの説教でキリル氏は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシが一つの霊的な民として再統合されることを「神の真理」と主張。プーチン氏によるウクライナ侵攻に宗教的な正統性を付与した。さらに彼はこの戦争を、物質主義、道徳的相対主義、グローバリゼーション、そして同性愛の促進にとらわれた退廃的な西洋文明に対する「形而上学的」闘争の一部として意義づけ、罪深い西洋の「家臣」となったウクライナを救い、「聖なるルス」に連れ戻す聖戦として位置付けた。キリル氏の世界観において、ロシアは堕落した西洋文明から世界を救済する使命を担っている。そして、その指導者であるプーチン氏は「宗教的な奇跡」であり、救世主のような存在だ。
 こうした人種、国家、教会の合成物が、正教会のみならずキリスト教の正統的な教えから逸脱していることは明らかだ。ガーディアン紙も指摘するように、世界各地に支部をもち、国際的な権威を誇ってきたロシア正教会は、孤立した国家の孤立した教会へと転落しつつある。
 キリスト教の道徳的な教えを侵略行為の正当化に用いたキリル氏の言説は、ロシア正教会の権威を貶めるだけでなく、「堕落した西洋文明」に問題意識を持つ宗教者による良識的な運動にまで、おしなべて偏狭で独善的なイメージを植え付けるリスクを孕む。物質主義の蔓延や性倫理の崩壊への懸念は、キリスト者のみならず、多くの宗教者が共有するものだ。しかし、彼らの多くは決してロシアの侵攻や民間人の殺害を容認しない。その意味でも、ロシア正教会のプーチン氏への追従は、宗教界全体にとって容認できない危機なのだ。
(2022年4月10日付 786号)