ウクライナ侵略とロシア正教会

連載・宗教で読み解く世界情勢(73)
宗教問題アナリスト・小笠原員利

  ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、モスクワ総主教に忠誠を誓うウクライナ正教徒がウクライナ国内で迫害の危機にされていると主張し、彼らの保護を侵攻理由の一つに挙げた。
 ウクライナはロシアと同じく正教が主流であり、ウクライナ正教会はながらくモスクワ総主教のもとに置かれていた。しかし、ソ連邦崩壊で政治的にロシアと分離したウクライナでは、宗教的な秩序においてもモスクワからの分離独立の動きが強まり、2019年には世界の正教会で筆頭格にあるコンスタンチノープル総主教バーソロミュー1世によって、ウクライナ正教会の独立が認められた。
 しかし、モスクワ総主教区はこれを認めず、ウクライナ国内にもモスクワに忠誠を誓う教会は残っている。つまり、ウクライナ正教会は現在、独立派とモスクワ派に二分されており、プーチン大統領は、そのうちモスクワ派正教徒を救済するために戦争を始めたと主張したのだ。
 しかし、ソ連崩壊とウクライナの独立から30年以上が経過する中で、モスクワ派も基本的にはウクライナ国民としての強いアイデンティティを持っている。モスクワ派正教会トップであるオヌフリー大主教は、プーチンの主張と一線を画し、ロシアの行為を、聖書で弟アベルを殺したカインの罪に喩えて強く非難した。独立派正教会は言うまでもなく、ソ連時代に激しい迫害を受けた少数派のカトリック教会を含め、ウクライナの宗教界はロシア非難で一致している。
 プーチン氏が宗教的な文脈でウクライナに言及するのはこれが初めてのことではない。クリミアを2012年3月に併合した後の年次教書演説(同年12月)でも、彼はクリミアの中心都市セヴァストポリ郊外にあった古代都市ケルソネソスを「ロシアにとっての聖地」だと宣言し、ロシアの「精神的源泉(spiritual source)」と表現した。ベラルーシ、ウクライナ、ロシアの文化的な祖先とされるキエフ大公国で、正教を国教として導入し、異教を排斥したウラジミール1世が回心した場所がケルソネソスだとされているからだ(キエフ近郊との説もあり)。
 同じ論理でいえば、キエフもロシア正教の「聖地」である。宗教的、歴史的な文脈で見るとき、ロシアがベラルーシを従え、ウクライナをも影響下に置くことは、キエフ大公国の復活となる。しかし、ウクライナ国民と正教徒たちの尊厳や生命を踏みにじる独善的な論理は、現代主権国家の視点からも、隣人への愛を説くキリスト教の視点からも通用しないことは明らかだ。
 一方のロシア正教会はプーチン大統領による「侵略」をどのように捉えているのか。ロシア正教最高指導者であり、ウクライナのモスクワ派正教会からも忠誠を受ける立場にあるキリル総主教からは、自らの「敬虔な」信徒であるプーチン氏を非難する声は聞こえてこない。逆に「ロシア、ウクライナ、ベラルーシ」を含むロシアの地を主なる神が維持するよう祈り、プーチン氏の拡張主義を宗教的に裏付ける立場を取っている。
 国家の論理や政治的な思惑を超越した普遍的な視点を示せなければ、宗教の存在意義はない。キリル総主教がプーチン氏の追認に終始するなら、その宗教的権威は深刻に毀損されるだろう。すでにウクライナではモスクワ派の多くの教会で、典礼から「キリル総主教」の名前が削除された。分裂していたウクライナ国内の正教徒は、祖国防衛の旗のもとに一体感を強めており、逆にモスクワとの距離は開く一方だ。
 ロシア正教会内部からも、わずかながら異論が出始めている。ウクライナ侵攻に反対する公開書簡に、司祭、助祭300人近くが署名したのだ。全世界4万人の聖職者の中では小さな数だが、ロシア国内の聖職者も含まれていることは注目に値する。ほかの正教会からも、世界教会協議会の書記長代理でルーマニア正教会の司祭イオアン・サウカがキリル総主教への公開書簡を発表。戦争の停止をプーチン氏に説得するよう嘆願した。アイルランド、スコットランド、イングランド、ウエールズのカトリック司教のグループも「キリル総主教とロシア正教会の全員」に戦争終結の為に働くよう呼び掛ける声明を発表した。
 今後もプーチン大統領への迎合路線を続けるならば、国際政治でのプーチン氏の孤立と同様に、ロシア正教会に対するキリスト教コミュニティの信頼も大きく損なわれるだろう。彼らが単なる独裁的統治の道具ではないことを示せるかどうか、キリル総主教はじめ聖職者たちの言動に注目が集まっている。(2022年3月10日付785号)