渋沢栄一と資本主義の倫理

2021年3月10日付 773号

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まった。主人公は「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一。タイトルは藍玉を売るため信州に行く峠を越える途中、渋沢が詠んだ漢詩の一節「勢衝青天攘臂躋」(青空をつきさす勢いで肘をまくって登り)から取られた。
 経済成長が鈍り、少子高齢化に加えてコロナ禍で閉塞感の漂う日本には、明治の初めのような元気の回復が望まれている。国民一人ひとりの力を国づくりに生かす仕組みを作ろうとした渋沢の生涯を概観してみよう。

父から商売を習う
 渋沢は1840年、今の埼玉県深谷市血洗島の豪農の家に生まれた。栄一の父市郎右衛門は本家の三男から分家に婿入りし、家を建て直した人。栄一は7歳の時から従兄の尾高惇忠(あつただ)に四書五経や「日本外史」を、父に商売を習った。土地柄から養蚕と染料の藍玉作りが主で、良質の藍玉を作らせるため、栄一は農家の品評会を開き、一番の人を上座に座らせ競争心を刺激している。
 ある時、栄一が父の名代として岡部の代官屋敷に行くと、代官に渋沢宗家は千両、栄一の家は五百両持ってくるよう命じられる。金をもらう方が威張っている世の中は間違っていると思った栄一は、やがて討幕を志すようになる。
 水運で通じている水戸から尊王攘夷運動が伝わってくると栄一はかぶれ、同志を糾合して外国人を皆殺しにし、幕府を窮地に追い込もうとした。そのため高崎城を襲う前夜、京都の偵察から帰ってきた同志に、弾圧されるからやめるよう言われてあきらめ、身を隠す。
 江戸で接触した一橋家の用人に同家の家来に採用され、一橋慶喜のいる京都に行く。慶喜に見込まれた栄一は一橋家の渉外役になり、薩摩や長州の要人と折衝するようになる。当時、栄一が構想していたのは、徳川家を廃絶して幕府をやめ、慶喜が雄藩連合の共和政体のトップに就くこと。そのため将軍にならないよう進言していたが、将軍家茂が病死したため慶喜は15代将軍になってしまう。
 幕府顧問でフランス公使のロッシュから1867年のパリ万博に参加を求められた慶喜は弟の昭武を派遣し、水戸藩の家臣に加え渋沢を付けることにした。旅の途中、スエズ運河の巨大工事を担当しているのが国ではなくレセップス社だと知り驚く。通訳から株式会社は国家をしのぐ金も集められると知り、フランスでその仕組みを勉強しようと考えた。
 フランスで渋沢の世話をしたのが銀行家のフロリヘラルトで、渋沢は彼を介してフランスの資本主義を学ぶ。渋沢は彼が軍人と対等に話すのを見て、日本もそんな国にしなければならないと考える。当時のフランスは、クーデターで皇帝になったナポレオン3世が、私企業を競わせて計画的に鉄道網を整備するなど、経済が急速に発展していた。広く資金を集め、労働者の賃金を上げて経営を成功させ、国を豊かにするという資本主義の仕組みを渋沢は目の当たりにしたのである。
 徳川崩壊の知らせを受け帰国した渋沢は、大隈重信の求めで大蔵省に出仕し、日本経済の基礎作りに取り組む。度量衡の統一から統一貨幣の発行、税金の米から金への変更、そして武士の廃絶に伴う金禄公債の発行など。その金禄公債を出資金に創設したのが八十八銀行などのナンバー銀行で、渋沢は銀行や株式会社の条例も作っている。
 明治6年に渋沢は日本初のベンチャーキャピタル・第一国立銀行を創設。アメリカの銀行システムにならった非中央銀行系の紙幣発券銀行で、次いで株式市場整備のため証券取引所を創設した。鉄道や海運会社に続いて損保と生保、紡績会社に製紙会社など、渋沢が設立した会社は約500社にも上る。

論語と算盤
 グランドデザインは政府が作り、それをもとに私企業が自由競争するというのが、渋沢がフランスで学んだサン=シモン主義である。また『論語』を学び直した渋沢は、孔子が公正な利益に基づく商業を推奨しているのを発見し、朱子学の『論語』解釈は間違いだとした。『論語と算盤』で儒教道徳と経済を結び、資本主義の倫理としたのである。
 さらに渋沢は経済人を教育するため東京商業学校(一橋大学)を作り、晩年には福祉の必要性を知って孤児たちの東京養育院を作り、後に「福祉の父」としても称賛された。