各神学の長所と短所・上

連載・カイロで考えたイスラム(35)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

ジャブル派神学
 全ての事象が神の予定であるとすることは、複雑な事情や状況、疑問、不信などがあっても、全てを神の予定(運命)なのだと割り切って、不服を言うべきではないと観念し、諦め、消化することにより、余計な争いや不幸の拡大を避けることができる点は長所といえよう。
 しかし、全ては神の予定だと単純に信じ切れない人々にとっては、理解できない、納得できないことが重なり、ストレスが溜まる。ことに不幸な出来事が起きた場合や、他人と比較して自分が不利な状況にある場合、神が愛であるなら、なぜこんなことになるのかとの疑念が湧くのは当然だ。自分の努力で克服すると、やはり人間の努力が状況を打開するのではとの考えになろう。
 科学が発達し、合理的思考が浸透している現代では、ジャブル派の神学が人々を納得させるのは困難になっている。神の予定と人間の責任に対する明確な理論が求められている。

カダル派神学
 カダル派神学の長所は、全ては神の予定、宿命だというジャブル神学を否定し、人間の自由意思を認めたことである。完全無欠で至高最善の神が悪行を行うはずがなく、何物かが人間をそそのかして悪をやらせているに違いない、と結論した。「コーランにも、悪を人にさせるのは神ではなく悪魔だ」と明白に断言していると主張し、22章4節や35章5〜6節、41章36節、58章20節などを示した。人間は自分の行為を創造することから、悪魔が人間に悪行をさせている、とした。この神学により、人間が無責任になったり、投げやりになったり、理由なく絶望したりすることはなく、自分で命運を切り開くという、人生に対する積極性をもたらしたのは長所といえよう。
 カダル神学の短所は、神が完全無欠なのになぜ悪魔が存在するのか、神が悪を創造したのか、人間が悪を創造したのなら、なぜ悪を創造するような人間を創ったのかなど、悪の存在に関する明確な理論を提示し得なかったことだ。悪を人にさせるのは神ではなく悪魔だとするなら、神はなぜ悪魔を滅ぼさないのかとの疑問にも答えていない。完全無欠の善なる神の前に悪魔はどうして出現し、どう働き、それに対して神はどう対処しているのか、明確な回答が求められている。その中で、人間の責任や役割も明確化される必要がある。
ハーリジ派神学
 ハーリジ派が、信仰は信仰告白のみで足りるのではなく、実践的な要素、すなわち正しい行為が加わらねばならないとした点は、信仰を観念から現実に引き降ろし、現実生活を送る上での道徳の重要性を追求したことは長所といえる。言行一致、心と体の一致を求めた点が評価される。
 しかし、信仰を実践しない者は裁かれるべきで、既に非イスラム教徒であるから殺害しても構わないとまで極端化したところが短所だ。
 その思考に、人間は罪を抱えた存在で、そうしなければならないと思いつつも出来ないことへの配慮に欠けるのが短所である。事実、ハーリジ派の過激な人々は剣を携行し、イスラム教徒に質問し、答えが自分たちの思想と違えば、直ちに刺し殺したという。このような考えは過激派に受け継がれ、斬首や鞭打ち、石打の刑などの極刑にも繋がり、独善的、排他的思考に傾倒していきやすい。

ムルジア派神学
 ムルジア派は、最大の罪は多神崇拝で、裁きは神に一任し、最後の審判の日まで待つべきだとし、メッカに向かって祈る人々は全て真のイスラム教徒と認めようと主張した。おおらかで懐が深く、救いの門を拡大したことは長所といえよう。信仰によってのみ救われるとし、信仰さえあれば、罪人でもイスラム教徒と認め、彼らを非信徒、異端者だとし、無慈悲に排除し去るのは絶対に許されない、と主張した。これは罪人の弱さを認めたことにもなり、キリスト教との共通点も見受けられる。
 この神学の短所は、救いを広くした動機が、シーア派やハーリジ派からの神学的・理論的な批判から逃れ、自分たちの罪を正当化するためだったことだ。批判する人々をなだめるあまり、真理に向き合うことを回避し、苦し紛れの自己正当化に徹したとの批判は免れないだろう。
 信仰はある程度、行為に反映されるべきである。他人に迷惑をかけない、他人を思いやる、互いに尊敬し合うなど、最低限の道徳的規範が維持されるような、あるべき行為の規定はある方が望ましい。

ムアタズィラ派神学
 それまでイスラム教では、真理には神の啓示と預言者の言行による以外到達する道がなかったのだが、ムアタズィラ派が初めて「理性」を真理の基準として認め、かつその絶対的権威を確立したことは長所だ。これにより、イスラム以外の思想伝統にも真理の発露を発見することになった。また、予定論を排し、人はこの世で為したことの善悪に従って、来世において賞罰を受けるとし、人間にも責任があることを明確化した点は長所である。
 イスラム教徒には、最後の審判の時、ムハンマドが信徒のために神にとりなしをし、罪を犯しても罰を軽くしてくれる、という信仰があるが、ムアタズィラ派はこれを完全に否定する。自ら選んで悪い行いをした者が地獄の火に焼かれるのは当然で、これを預言者が救い出すことはあるはずがないと主張した。ここには、人間が罪人であり、それゆえ罪を犯さざるを得ない弱い存在であることが認識されておらず、罪を犯した者は裁かれて当然だという冷たい合理主義であることが短所だろう。
 人間には抜本的な欠陥があり、誰かのとりなしが必要なのだが、その必要性を認めなかったことは大きな欠点だろう。この考えでは、地獄を解放できず、罪の原因も突き止められず、多くの人々が救われない。それは結果的に神の失敗であり、罪と救いに関する解明がなされていないことが最大の欠点と思われる。
(2021年3月10日付 773号)