「生命への畏敬の倫理」を生きるなら

連載・シュヴァイツアーの気づきと実践(17)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫

 アフリカでの奉仕活動が第一次世界大戦のため中断され、ヨーロッパに送り返されたシュヴァイツァーは、ほぼ10年にわたってヨーロッパ各地で講演と演奏に忙しくとび回った。意に反した活動であったが、彼は前向きの姿勢でこの日々を活かした。その一つが執筆活動である。
 1923年(48歳)には『文化の退廃と再建』『文化と倫理』を、翌年には『生い立ちの記』を出版した。これらの本は、1951年(56歳)のときに出版された『わが生活と思想より』の中で、だれにも理解できる簡明な表現でまとめられた。
 では、「生命への畏敬」とはどういうことであろうか。シュヴァイツァー自身による命題を表示し、その内実を検討してみよう。
 命題1:私は生きようとするいのちであって、生きようとするいのちに囲まれている。
 命題2:善とは生きようとするいのちを助長することであり、悪とは生きようとするいのちを阻害することである。
 分かりやすい表現ではあるが、実際の生活の中で具体的に考えて実行しなければ、倫理としての価値はない。シュヴァイツァーは自ら実践し、それを理論づけることによって、この倫理の正当性を示した。これについては後に解説する。
 よりよく生きようとする「私のいのち」。何より大事な「私のいのち」。ふと見渡すと、身の回りのすべての生きているものが「私のいのち」を主張している。言い換えると、「私のいのち」が大切であるのと同じように、「すべてのいのち」が大切に守られなくてはならないのだ。これは人間のいのちに関するだけでなく、すべての動植物や昆虫などの「生きようとするいのち」に関わっていることでもある。これまでの倫理はほぼ対人関係だけに関わっていたので、この姿勢は大きく広がった生き方である。
 「私は傷つけられたくない。殺されたくない。だから、一匹のハエや蚊も「よりよく生きようとしているいのちとして、殺してはならない。麦を刈る農夫も道端の草を無意味にちぎってはならない。家を建てるのに立ち木が邪魔であるなら、成長した樹木は建築用材や焚き木として利用し、若木は植え替えなくてはならない」
 善に生きるなら、柱を立てるための穴に落ち込んだ虫を、丁寧に助け出さなければならない。シュヴァイツァーはこれを実践した。彼の監督の下で働く現地の黒人たちは、これを面倒くさがったが、やむを得ず彼の指導にしたがった。
 シュヴァイツァーの思想、すなわち、いのちへの思いはさらに広がり、山や森、空気の流れ(風)、水の流れ(川)のような自然現象、衣服や家具などの人間の手による被造物にも向けられた。自然は人間の欲望によって破壊されてはならないのだ。帽子も靴もズボンも、あるいはテーブルや鉛筆も、どれもいのちあるものとして大切に使いきるのが倫理的生き方である。シュヴァイツァーのズボンはつぎはぎだらけで、靴底はパタパタしていた。こういう思想と実践には批判や非難が浴びせられるのは当然のことである。次回はそれを検証しよう。
(2020年11月10日付 769号)