『鷗外・闘ふ家長』山崎正和(1934〜2020年)

連載・文学でたどる日本の近現代(13)
在米文芸評論家 伊藤武司

穏健な保守
 山崎正和は文芸評論、劇作、演劇評論にたずさわる才人であった。1963年発表の戯曲『世阿彌』は、日本をかわきりにアメリカ、イタリアでも上演された。『室町記』は室町時代に将軍や武士社会に茶道や連歌を広めた歴史評論。司馬遼太郎、木村尚三郎、会田雄次、丸谷才一、福田恆存らとの対談・鼎談も多い。「穏健な保守」「文化的保守」を任じ、文化・文明に対する学識豊かな発言は社会評論家として定評がある。 
 「柔らかい個人主義」を唱え、政府の諮問機関や審議会にも参与し、複数の大学で教え学長も務めた。
 明晰な文章と緻密な論理性を貫いて書き上げた長編評論『鷗外・闘ふ家長』は1971年に上梓。本書は鷗外の作品論ではなく、公私共の人間鷗外の軌跡を究明している。
 日本の文学界が誇る森鷗外の名は夏目漱石と並んで定着している。両者に関する評論や作品論は膨大で、鷗外は数多くの歴史小説を書いた。アンデルセンの小説『即興詩人』の翻訳は、瑠麗な名訳文で原作をしのぐといわれている。
 同時代の文人たちと同様、鷗外には漢文体の日記がある。著者は、鷗外は主人公が分身となって告白する作家で、そうした事例はいくらでも拾えると主張。小説や評論や家族の追想文を資料に引用・参照し、その出生から死までの光芒をたどりつつ内面世界に迫っている。
 幕末の文久2年(1862)、山陰の津和野藩に代々使える医家の長男として誕生し幼名は林太郎。早熟で四書五経を素読したのが8歳、10歳でドイツ語を学び、13歳で東京医学校予科(翌年、東京大学医学部に昇格)に進み明治10年に本科生となった。
 下級武士の家系の彼が23歳で陸軍軍医として洋行したのは明治17年のこと。留学の目的と意志はあまりに明瞭で、個と家と国家とが同一化した、近代日本草創期の一代目として世に出たのである。ドイツ生活は順調で、「単純明解」そのものであった。
 留学前には訳詩を試み、すでに作家としての才能をひらめかせていた。溌溂とした日々、幸福感に包まれたドイツでの4年間は、十数年後の漱石や荷風との対照が興味深い。
 生まれたばかりの明治国家は、志ある有能な人材を必要としていた。鷗外はそうした激流のただ中にいた。49歳での『妄想』には己の内面を語っている有名な一節がある。
 「生まれてから今日まで、自分は何をしているか。……自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。……策(むち)うたれ駆られてばかりいる為めに、その何物かが覚醒する暇がないやうに感ぜられる」
 ところが医学の課題を精力的にこなす過程で、何者かがそのようにしむけているという不安感が生じ、その実相は、帰国後しばらくして顕現化する。
 鷗外の歩みを際立たせるために、本書は新時代の文人漱石と荷風を並列させる。鷗外に遅れること16年、英国に留学した漱石は、何をどうしたらよいのか個人的な苦悩を抱えていた。永井荷風が米国・フランスに渡ったのは鷗外から20年後。自費留学で数年を過ごしながら生涯の計画も立てられず、荷風は懊悩の中帰国した。2人とも湧きあがる自意識と闘いつつ、浮草のような「自己喪失」を強く感じていた。
 漱石の苦痛を救ったのが「自己本位」の生き方だったことが「私の個人主義」に述懐されている。国家から見捨てられた観のある荷風は、戯作者としての道を歩むことになる。鷗外のケースはどうであったろうか。
 本書は漱石・荷風は、怒りや喜びなどの「感情の原点を明快に持てた」と評し、そうした意味で、「幸福な出発点」を持ちえたと形容する。一方「抱くべき感情を求めて左右に揺れ動いて」いたのが鷗外だったという。そして「鷗外ほどその生涯を家族とともに生き、また家族からこまやかに見つめられた文学者も稀であろう」と評す。

若くして家長に
 誕生時の森家の内情と環境を一瞥してみよう。藩主に使える典医・祖父が急死し、遺された一家の落胆と悲嘆は大きかった。家長の祖父が覇気のある傑物であったからなおさらである。
 ほぼ同時期に林太郎がうぶ声をあげたことで、家族は偶然とは思えない感情に包まれた。「いつしか一家がこの幼児を祖父の生まれかわりと受けとったのも当然であった」。林太郎は、医業と家督を継ぐべき運命のもとにあった。子供が成長するまでのつなぎに、13代目の家督を継ぐ林太郎の実父・静男が婿養子として森家に迎えられていた。やがて、森家の全員が故郷を離れ東京へ引っ越し、林太郎は祖母や実母に見守られ、青年期には妹を加えた家庭的な雰囲気の中で過ごすことになった。
 鷗外を語る山崎のキーワードは作家でも軍医でもなく、「家長」である。その精神史を語る上で、「優しい父親・静男の存在は思いのほかに大きかった」と分析。輝かしいイメージの祖父に比し、あまり目立たないが林太郎には「とりわけ優しい庇護者」であった。山崎は、近代化に耐えながら生き延びた明治人の象徴を、静男に認める。明治には国家的、政治的なことから無縁の無数の人びとがいて、「日本の近代化は、おびただしい森静男のような人間によって底辺を支えられた」という。そうした人の処世術は「近代にたいしても日本にたいしても……抗うことよりも耐えること」であった。
 過渡期を生きた父親のように、複雑な生き方を「宿命的一家の父として」「自覚的に自分の態度として」選択したのが鷗外であったと本書は述べる。
 ほぼ決まりかかった弟の養子縁組を破談にした事件がある。12歳の弟に兄の鷗外はこの時18歳。以来「林太郎が一家の『父』であることは公然たる了解」となり、父権の確立のための奮戦と挑戦が強いられた。留学中、妹の縁談話がもちあがると、電報をうって迅速にまとめあげその任を果たした。明治時代の家督を継ぐ人は、現代では考えられない重さを抱えていて、特にこの意識は鷗外をことのほか拘束するようになる。
 若くして家長に立たせられたことは不運としか言いようがない。その態様は「仮面として身につけた虚構であり、まだそのしたにひとりの成熟した男としての素顔ができていなかった」と山崎は同情的である。鷗外は一種特異な人格を所有しているとの説がある。「不可解な謎が多い」からで、留学中の結ばれることのない恋人エリスの来日事件。最初の結婚は長男を儲けながら1年たらずで離婚。一般論としては合理的に理解しにくい出来事が続いた。
 彼の「青春にはときどき異様に挑戦的な瞬間」が見出される。「過激な態度」により「いくつかの攻撃的な事件」をひき起こすかと思えば、「冷然たる静観的態度と併合しているために」一種のヒステリカルな性格的分裂を感じてしまう。「単純に鷗外の傲慢さのあらわれと見る批評」もあり、青年時の鷗外は「雄弁な論争家」でもあった。
 それを象徴するのがドイツの人類学者ナウマンとの過激な論争で、祖父ゆずりの雄弁ぶりをみせつけた。ナウマンは、近代化の技術や新知識をむやみに摂取する明治日本の危うさに批判的であった。スピーチに反発した鷗外は、語気を強めてドイツ語で日本擁護論を展開。当時、洋行帰りの多くが、欧米の新知識や情報を体現した希望に輝いていた中、皮肉にも近代文明に批判的な「洋行帰りの保守主義者」になってしまう。坪内逍遥との文学論争や陸軍での脚気に関する意見の衝突もあり、あげく軍に辞表を出すまで感情を爆発させた。こうした態度に「老成と幼さ」の混交した輪郭が浮かび上がる。
 「この仮面劇は幕をあけると現実同様の効果を持ち、現実はいささかの容赦もなく彼に継続的な責任をとることを要求した」。背伸びをした生き方、「老成と幼さ……の奇妙な共存」がそのまま一生を支配する独特な処世術を生みだす。身近にいる家族の皆が、「愛情のような雰囲気」をふりまき、役者のような演技をみせつける彼に気付かないわけはなかった。
 「つねに自分を励まして饒舌な感情状態を保っていたことは疑いない。ひとり葉巻をふかして本のうえにうつむいているときにも、彼の背中の表情はつねに家族に向かって開かれており、その無言の触手が間断なく彼らの傷つきやすい神経をなでつづけていた」。
 そして次のよう意義づける。「鷗外には、健全な市民の平均以上に、さまざまな人工的な気分を演じわける感受性がそなわっていた。自分を快活な気分へと励ますことが彼には不思議に容易であり、いわばその能力にそそのかされて、かぎりなく主人の役割を演じつづけることが彼の宿命」になった。まさに「すべての問題に責任を取る庇護者の態度」「ホスト(主人)」のふるまいそのものだという。
 山崎は、鷗外の性格を、近代の知識人たちが多かれ少なかれもった自我の不在、いやしがたい自我の空白の気分に由来すると洞察する。批評家は真相を「情念と理性との戦い」や「エゴイズムと自己没却の対立」に求めようとするが、「近代的自我の観念と、精神的な『父』としての現実とのあいだの分裂」に他ならないとみた。精神的な父とは鷗外本人のことである。頭脳明晰な彼は、近代世界の自我の問題を誰よりも知的に理解していたであろう。しかし己の感情として実感できない苦悩や不安を小説や評論で度々告白している。それらは旧時代の観念に従った歴史物となり、「半自我しか」持ちえない空白感を埋めるため、家長の観念を代償にしている点が鷗外文学の一特徴という。挙句、「なんでもないことが楽しいように」生きることを心掛ける短編『かのように』を書きあげた。

国家との乖離
 次に吟味したいのは国家との乖離に関する事情である。35年間、官僚の道を歩んだ林太郎に出世欲がなかったとはいえない。事実、軍医の最高職・軍医総監や陸軍省医務局長に上りつめ、勲一等旭日大綬章を受け、文学博士号もあり、文豪として漱石と並ぶ。しかし職業軍人の世界では文名はあまり評価されない。創作活動は余業なのに、職務をおろそかにしたとの非難もうけた。節目は、軍医部長の役職で九州小倉に左遷されたころであろうか。その様相は『栗山大膳』に明らかで、翌年陸軍省を退官する彼が主人公大善にことのほか共鳴している。「この主人公と彼が仕えた筑前・黒田家の関係のなかに、われわれは鷗外の国家に対する感情を象徴的に読みとることができる」という。
 国家や近代に対する反発・反抗の姿勢が、「官僚組織の中での居心地の悪さ」や「帰属感情」の希薄さからいつしか距離をおくようになる。やがて何事においても運命として自ら耐える「反・悲劇的人間」観に変質したとする。確かに「不幸な家長」の軸では、中期から晩年への歴史小説のイメージは「ほとんど例外なく……強迫観念のように繰り返している事実に驚かされる」。『阿部一族』『高瀬舟』『山椒大夫』『大塩平八郎』、また『栗山大膳』へと続き、どれも「不遇な家長」のテーマとして読める。
 普通の人間としての「成熟のドラマ」を成就できなかった鷗外は、41歳で18歳年下のしげ子と二度目の結婚をする。すると気難しい祖母・峰子とわがままな妻との間に嫁姑の問題が起きた。最初の結婚で生まれた長男・於菟(おと)もいる。
 家庭を一つの統一ある状態にしよう、「理想的な父になろうと努める」。しかし、新家庭をもって、「峰子と於菟にたいしてうしろめたく思う感情」と「そういう働き方をする自分の心をしげ子にたいしてうしろめたく思う感情」とが交差しますます「自虐的な献身」に没してゆく。
 その時分の雰囲気を、於菟が『父の映像』に記している。闘争の心意気も消滅した鷗外は55歳。別棟の長男は、ドイツ語論文を父に訂正してもらえば、研究誌に掲載の手はずになっていた。鷗外が喜び、日記に綴ったところ、妻が読み激怒したというのだ。翌朝、それを繕うためにそそくさと長男のところにやってきた。「父は泣顔と苦笑とをごたまぜにしたやうな変に歪んだ顔をしてゐる。私は言句も出ない。父はすぐ後向きになつて私の家の格子戸と門との間の五六間をトボトボあるいて、そつと門をあけて出て行った。その後ろ姿はいかにも哀れな老人の衰えをまざまざと示して私は見るに堪へなかつた」と。
 死の間際の「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス……」の遺言の一節もわかりづらい。しかも、「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホルベカラズ 」とある。何人をも寄せつけない厳としたすごみを感じさせる文言ではないか。石見人ほど彼と因縁の薄い語彙はない。激動の時代に故郷を捨てて生き残る策を図った森家である。
 石見人を語るには、人生半ばに総括したエッセイ「なかじきり」が最適であろう。死の5年前の一文で、医者、文学者、思想家として携わってきた人生全般にわたり「生存の基盤としての安心が感じられない」という諦念・嘆息・不安の回顧である。「内面の空虚」や老いの意識は、さらに5年前の告白的文「妄想」で先取りされていた。要は「しだいに疎遠になる自分と現実世界との関係を再調整すること」に取り組んだが、「仮の足場」以上の充足は得られなかったと思われる。そう判定すると、鷗外の孤独が一段と迫ってくる。
 山崎は、武士の意地を貫く歴史小説『興津弥五右衛門の遺言』『佐橋甚五郎』『護持院原の敵討』『阿部一族』などを手がかりに鷗外の深層心理に近づく。そして「意地」や「あそび」に近接した感覚を強くもっていたのではと推測する。結局、60年の生涯を「嘆きながらもいだちながらも、……人生にあたえられたあれこれの意義にすがることなく、つねにあたえられた意義よりも少しずつ大きな気力をふるって生き通した」一事に意味があると結んだ。「あとがき」は、著者の人柄も伝わり共感できる。
(2020年11月10日付 769号)