偉人を育てた岡山の教育

連載・岡山宗教散歩(20)
郷土史研究家 山田良三

閑谷学校
閑谷学校

 幕末に来日した西洋人が驚愕したのが、庶民まで読み書きが出来、しかも礼節をわきまえている事でした。江戸時代の日本は世界で最も進んだ教育国で、それを担ったのが、各地の藩校や寺子屋、手習所等でした。

岡山藩校と閑谷学校
 藩校や庶民教育の学校の先駆けは備前岡山藩でした。寛文9年(1669)創立の岡山藩藩校の前身は、「花畠教場」(花園会)と呼ばれた学習者の集まりでした。ここでは儒学者熊沢蕃山が近江の中江藤樹から学んだ儒学を教えていました。
 寛文6年(1666)、幕府がキリシタン摘発のための寺請け制度を導入した時、岡山藩は同じく邪宗門とされた不受不施派の法華宗寺院が多く、実施が困難でした。そこで寺院を淘汰、寺請け制度に代えて神職請けを実施します。その人材養成の仮学校が石山に設けられました。寛文9年、池田光政は津田永忠と熊沢蕃山の弟の泉仲愛に命じて西中山下の元不受不施寺院跡に新学校を開校します。これが日本で最初の藩校、岡山藩藩学です。中江藤樹の真筆の書軸「至聖文宣王」が掲げられ、開校式は熊沢蕃山が仕切りました。藩校で教えられたのは幕府の正学である朱子学でしたが、藩主光政が尊敬した中江藤樹の教えが根本でした。
 寛文7年、岡山藩では家臣子弟と村役人の教育のために各郡に講釈師を配置、123か所に手習所を設置、併せて津田永忠に閑谷に学問所の整備が命じられました。延宝元年(1673)に講堂、翌年には聖堂が完成、これが日本で最初の庶民教育の学校、閑谷(しずたに)学校です。洪水による藩財政の逼迫もあり他の手習所は全廃、閑谷学問所に統合されました。閑谷学校には藩内外から学生がやってきました。主に村役人や庄屋の子弟などが学び、彼らは閑谷で学んだことから村を治め、村人に読み書きや徳目を教えました。こうして広く民、百姓にまで教育が行き届いたのです。
 宝暦期(1751〜)以降になると、全国の諸藩が競って藩校を設立し庶民教育にも取り組みます。藩校の数は全国255か所に及びました。大河ドラマで有名な会津藩の日新館は、中江藤樹の弟子淵岡山の指導による藤樹学が学ばれていました。
 岡山藩で藩校や庶民教育が進んだきっかけは、近江聖人中江藤樹の教えを学んだ熊沢蕃山を岡山藩主池田光政が用いたことです。蕃山は京で誕生、母方祖父近江の熊沢家の養子となり、丹後峰山藩主京極高通の紹介で、光政の児小姓役が最初の出仕でした。島原の乱後、これからは「学問」だと考えた蕃山は、一度岡山を離れ、近江の母方祖父の家に帰り良き師を探し求めていたところ、中江藤樹の私塾の話を聞いて弟子入りしたのです。寛永18年(1641)9月から約半年、藤樹のもとで学びました。その後兵学などを学んで後、再び京極氏の紹介で岡山藩に出仕しました。
 蕃山の師中江藤樹はもともと朱子学でしたが、この頃王陽明全書を手に入れ、その教えに深く共鳴します。それが心学です。岡山藩主池田光政は蕃山から藤樹の教えを聞き深く共鳴します。そして岡山藩に召し抱えようと参勤交代の途上、小川村に藤樹を訪ねます。藤樹は自身の出仕は断りますが、その弟子を送ることを約します。
 この中江藤樹と蕃山、そして池田光政の出会いが、近世日本教育の原点でした。内村鑑三は『代表的日本人』の中で、この3人の出会いを日本の精神・思想史における画期的な出会いとして紹介しています。
 蕃山は藩の治世に深く関与します。その実績は諸国に知られ、参勤交代に同行し江戸に登った蕃山のもとには、各地の大名や旗本が学びに来ます。将軍家光からも幕府に出仕の話も持ち上がりました。残念ながらこの話は、家光が亡くなり、朱子学派の保科正之や林羅山などが心学を警戒、立ち消えになりました。そうこうするうち蕃山と光政との関係が難しくなります。明暦元年(1655)頃、蕃山と門閥家老との確執から蕃山は光政の三男を養子に迎えて家督を譲り、和気郡寺口村に引退します。
 万治3年(1660)豊後岡藩の民生指導を終えて岡山に還ると、養子との不和が生じ、京都に赴きます。京都では師事する公卿も多くいたものの京都所司代からは疑義をかけられます。吉野、山城鹿背山と移り住み、明石藩主松平信之に迎えられ明石に在住します。この間、寛文9年に岡山藩校の開所式に招かれ翌年まで岡山に滞在しています。この間、光政に諫言書を送るなど藩政や幕政についての批判を続けます。老中堀田正敏から幕閣への登用を打診されますが断り、貞享4年に松平信之が移封された古河に移ります。幕政批判の廉で同地に蟄居となり、元禄4年(1691)、73歳で亡くなりました。
 蕃山の著は「集義和書」「集義外書」「大學或問」等多く、発禁処分も受けますが、幕末に至るまで多くの儒学者に読まれました。幕末の西郷隆盛や吉田松陰なども蕃山や王学(王陽明)を学び、勝海舟は蕃山のことを「儒服を着た英雄」と評しています。幕府の学問処昌平黌学長の佐藤一斉は学問処では朱子を教え、自宅では王陽明を教えていました。その代表的な弟子の一人が山田方谷です。

宗教人を輩出
 幕末から明治にかけて、岡山と近郊から黒住教、金光教のほか、キリスト教の指導者など多くの宗教人や偉人が輩出されます。彼らの信仰や精神を育んだのが、心学を取り入れた儒教教育でした。
 黒住教教祖の黒住宗忠は、備前国岡山城下今村宮の禰宜の家に生まれ、その伝記は宗忠の孝行話から始まります。親孝行を奨励する岡山藩では黒住家は模範的な家でした。宗忠は、親孝行を尽くすあまり死にそうになったところで悟りを開き、黒住教が始まりました。
 金光教教祖金光大神は、地元大谷村の庄屋小野光衛門から、手習ほか多くを学びます。小野光衛門は人格的にも優れ、和算の才は秀逸で江戸にまで響いていました。村人を援けるために私財を投じ、借金までしたため、天文方の仕官の話に応じて、江戸に向かおうとしました。村人達は借金は自分たちが何とかするから村に留まってほしいと懇願したのです。少年時代に庄屋から学んだ教えが、教祖の悟りや人々の救いに繋がりました。
 救世軍の山室軍平の生家は哲多町本郷(現新見市)です。母親が軍平の健康と将来を案じて卵断ちした話は有名です。学校では校長先生から愛され、足守で質屋をしていた叔父の家に養子に入り、叔父の勧めで松浦漢学塾に通い、「善書」と呼ばれる漢籍を学びます。養父から漢学を学び、これらがキリスト教への帰依や救世軍での活動に影響を与え、漢学の素養は執筆に役立ちます。
 吉備歴史探訪会で新見市に行き、本郷小学校隣にある山室軍平顕彰碑を訪ねました。すぐ隣は医療奉仕活動で有名なAMDAの国際貢献大学校です。新見は山田方谷が少年時代その師丸川松陰に学んだ所でもあります。山田方谷は最晩年を新見市大佐で過ごし教育に勤しみ、閑谷学校の校長も引き受けています。新見市役所前には丸川松陰に学ぶ少年山田方谷の像があります。山田方谷の母は、息子の将来と山田家の復興を願って新見に学びに行かせたのです。彼は藩主板倉勝静に認められ藩校の校長から家老職まで担い、藩の財政改革や老中になった藩主の右腕として活躍します。新見はそういう風土の遺る所です。
(2020年9月10日付 767号)