文明の落差と誤解のはじまり

シュヴァイツアーの気づきと実践(14)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫

 シュヴァイツァー夫妻がアフリカで活動を始めた1913年ごろ、アフリカは暗黒大陸と呼ばれていた。海岸線に点在する小さな町には、材木や雑貨を扱う白人商人が住んでいたが、町から一歩外に出ると、そこは文明人を寄せ付けない砂漠か密林だった。原住民は漆黒の黒人で、狩猟と植物採取によるかなり原始的な生活をしていた。1800年代の前半まで、彼らは奴隷としてアメリカやヨーロッパ各地に売られていったのである。白人社会での彼らは、コック、家事手伝い、雑務係、農夫などとして使われていた。
 ヨーロッパ諸国の植民地となったアフリカ各地は、1960年代の前半に、そのほとんどが近代国家として独立した。アフリカの住民は原始社会から文明社会に一足飛びで生まれ変わったのである。ヨーロッパや日本で千数百年かかった進歩を、彼らはわずか数十年で経験したのである。
 言い換えるならば、シュヴァイツァー夫妻がアフリカに渡った1913年から、90歳で亡くなる1965年までのほぼ50年間は、アフリカの一大転換期だったのだ。原始から近代文明への短期間の移行。この落差のはざまで、白人側にも黒人側にも、さまざまな誤解が生じた。誤解は相手を深く理解しないところに生じる。そればかりではない。人間各個人にはプライドがある。それぞれの民族にもプライドがある。違いのある相手に敬意を払うのか、それとも、蔑視の目を向けるのかは、人それぞれであり、民族それぞれである。
 次号では、シュヴァイツァーの具体的活動をいくつか示そう。その善意ある活動を現地人がどのように捉え、病院を視察に来た外来者、主にジャーナリスト、がどのように受け止めたかをつまびらかにするのが、本稿全体の目的である。黒人と白人の相互に、なぜ誤解が生じたのか、本当の姿はどうであったのかを解き明かす必要を、筆者は強く感じているのである。
 その本題にとりかかる前に、1913年から24年までの11年間に、シュヴァイツァーの経験した思いがけない生活のあれこれを紹介しよう。アフリカでの奉仕活動が思うようにいかなかった理由は何か。その不自由さのおかげで、思いがけない副産物がいくつか生み出されることにもなった。その経緯は、人生のあり方をわれわれに示唆してやまない。
 1914年8月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。ドイツ人であるシュヴァイツァー夫妻が活動していたランバレネは、フランスの植民地にある。夫妻は即座に捕虜として監禁された。政治上のやむをえない処置であった。フランス側としても、夫妻の奉仕活動を高く評価していたので、監禁はゆるやかなものであった。
 シュヴァイツァーから平和や愛について教えられていた現地の病人たちは、どうしてヨーロッパ人が人殺しの戦争などするのか、するどく彼に問いかけてきた。彼は答に窮した。これが契機となって、彼は文化批判に没頭し、やがてそれは『文化の没落と再建』となって出版された。「ヨーロッパのキリスト教倫理は力を持たなかった。戦争がそれを如実に露呈している」と言い切った彼は、倫理を中核に据え、ヨーロッパの歴史に立ち向かうことになっていった。
(2020年8月10日付 766号)