私の中に宗教を土着させる

2020年7月10日付 765号

 万葉文化論が専門の上野誠奈良大学教授は、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)で、「多神教とは、多くの神々がいる宗教ではなく、無限に神が生まれ続ける文化構造と考えねばならない。それは、偉大な神ではなく、『小さき神々』と呼び得る神であろう」と述べている。モノにも心があるというのが古代思考であった。
 そうした心性を持つ日本人が仏教を受容したので、「悉有仏性」「山川草木悉皆成仏」という日本的仏教が生まれた。悉有仏性は涅槃経の言葉で、インドで誕生した大乗仏教の思想にあるのだが、それは日本的風土、日本人的心性に土着することで実現したと言えよう。渡来した仏教を日本人が主体的に選択し、独自の発展を遂げてきたのは、大陸から海を隔てた島国という地理的条件が大きい。

習合して土着する
 空海が入唐してから密教の灌頂を受け、帰国するまでを小説にした『曼荼羅の人』(集英社文庫)で、陳舜臣さんは「華厳思想のあと、仏教の最後の形として密教があらわれたのは、インドの仏教人の反省が基本になっていたのだ。民間の信仰をはなれることによって、インドうまれの仏教は世界宗教となった。ところが、それによって、土着性をも失ってしまったのである。迷信、俗信をまじえた民間信仰は、その平面では放棄されても、高い段階では吸収されなければならない。いわば『止揚』であることを要した。仏教が土着の信仰と結びつくことで、密教の形をとった。天竺僧たちによって伝えられた密教は、恵果のころになって、ようやく唐で中国的な展開をしたのである。中国の民間信仰──それは道教とかかわり合う要素が最も多い」と述べている。
 山本七平さんも、日本に渡来した仏教はすでに中国で道教と習合していた、と述べている。それゆえ、日本古来の神道とも習合しやすかったのだろう。中国経由の仏教を、日本の風土と日本人の心性に土着させた一人が空海であった。
 空海は18歳で入った京の大学寮での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から入唐の31歳まで山林修行をしていたとされる。吉野の金峰山や四国の石鎚山などで修行を重ね、『大日経』をはじめ密教経典に出会い、一沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かっている。空海の周りには役行者ゆかりの修験者や、行基集団などを形成していた聖たちがいて、彼らとの交流から日本人の民間信仰を吸収したのであろう。
 空海は道教をはじめゾロアスター教やイスラム教、梵語などの勉強をはじめ、土木建築や精錬などの技術にも関心を広げていたのであろう。真言密教の思想と満濃の池修築などの実践という内外のバランスが実に見事で、それが後の大師信仰を生んだのである。
 密教の教えを図示した曼荼羅の中心に大日如来があるように、密教の核心は宇宙の本体である大日如来との一体化にある。人格性を帯びた仏なので、思索や実践を通して一体化しやすい。修行を通し確信したからこそ、空海は即身成仏を説いたのである。
 特に修行をしない一般人として、これをどう考えればいいのであろう。宇宙は自身を客観的に認識するために人間を生んだという考えがある。宗教によって説き方は違うが、人が宇宙(自然)から生まれ、宇宙に帰っていくのは間違いない。だとすれば、即身成仏は生身をもって宇宙と一つになることではないか。平たく言えば、宇宙の現れである周りの事物との一体化、心の交流で、それを日常の暮らしの中で探求するようにしたい。

原恩主義の日本人
 上野教授は前掲書で、キリスト教の原罪主義に対比して、日本人は原恩主義であるという。生まれてきたこと、存在することへの感謝からすべてが始まる。そこには自他の区別がなく、周りの事物を自己の人格に包摂しようとする。合理主義の現代社会が直面している格差や分断による破綻を防ぐ思想と実践が、そこから出てくるのではないか。
 儀礼や集会が自粛される今は、宗教を私に土着させるチャンスと言えよう。人生観や死生観として自身の中に定まってこその信仰であり、それには古代からの日本人の心性を学びつつ、自己の心の歩みを振り返る必要があろう。それがもたらすのは人間としての成長と喜びである。

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