「自粛」を成長の期間に

2020年6月10日付 764号

新型コロナウイルスに感染しないよう「自粛」を心掛ける新しい生活が始まった。長期間、宇宙ステーションで巣ごもり生活の経験がある宇宙飛行士の若田光一さんが、「自粛の期間は成長のチャンス」とテレビで話していた。自分の内側に目を向け、成長とは何かを考え、そこに向け日々努力するのが自粛の核心かもしれない。それは修行とも言えよう。
 若田さんは、将来が見えないときこそ、「今を大切に、目の前のこと、周りのこと、人たちに誠実に向き合う」とも言っていた。それは日常の暮らしの中に修行を根付かせてきた、日本の宗教が目指している境地でもある。
 もちろん、内面を深める手立ての一つである宗教も変わらなければならない。

死の終わりに冥し
 仏教の最終段階である密教を日本にもたらし、修験道が培ってきた古来の自然信仰や神道の教えも取り入れ、真言密教の教理と修法を完成させた空海が説いた即身成仏は、大宇宙を具象する大日如来と自分が一つになることを目指している。来世ではなく現世での成仏にこだわったのは、日本人が心底そう願っていたからであろう。
 その空海が『秘密曼荼羅十住心論』をみずから要約した『秘蔵宝鑰(ほうやく)』の一節で「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と述べている。自分の死の意味を考えるのは人間だけで、それが人間の内面を見る目を養ってきた。その蓄積を言葉と動作、リズムなどで表現しているのが宗教とも言えよう。
 仏教であるなら、ブッダが体験したことを追体験しながら、自らを深めていくのが修行になる。空海はじめ多くの宗祖たちは、その道を手本として後進に残している。しかし重要なことは、私の道は私でしか歩めないという現実である。借り物の道であってはならない。
 そのことを過激な言葉で表現したのが、臨済禅師の「仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し……」(『臨済録』)である。真実の自己に出逢うためには、自分を惑わせるもの、特に権威をもって自分に迫ってくるものは、たとえそれが仏や祖師、父母や親族であっても、徹底して否定しなければならないというのである。ブッダも「己れこそ 己れの寄る辺己れを措きて 誰に寄る辺ぞ よく調えし己れにこそ まこと得難き 寄る辺をぞ得ん」(『法句経』)と説いており、個を大切にする思想は古代からあったのである。
 その「個」は内外ともに閉じられたものではなく、周りの人や環境に開かれたものである。子供の成長過程を見ても分かるように、出会う人たちや事象の影響を受けながら、自分を形成していくのであり、それは死ぬまで続く。大宇宙との一体化も、人間が開かれた存在であればこそで、宇宙は自身を認識させるために人間を生んだという考えもある。
 では、成長とは何であろうか。周りの人や環境を取り込みながら、納得できる自分自身を形成し続けることと言えよう。外的な暮らしや経済よりも、内的な自己形成が大切であり、そのための道を説いてきたのが宗教である。
 ところが、宗教は権威をもって語られ、人々に信じることを迫るため、本来の目的を失ってしまうことが多い。自分の思いを否定する期間は修行としてある程度必要だが、それは自分で考えられるようにするためであり、信者をそう指導しない宗教指導者は、そもそも指導者として失格なのである。もちろん、それは宗教に限らない。
 大日如来が具象した宇宙には人間社会も含まれている。私たちが暮らす家庭や地域、仕事などもその一部であり、それらを総合したのが私という存在である。若田さんは自分を成長させるポイントとして、周りの人の求めを正確にとらえ、その期待以上に応えようとする姿勢を挙げている。そして、ユーモアを忘れずにとも。人生の潤滑油のようなもので、自分自身にもユーモアを発するゆとりを持ちたい。それが誰でも日常生活の中で出来る修行である。

宗教は人づくり
 宗教の本質は人づくりにある。どんな人を育ててきたかで宗教は評価されよう。歴史的に磨かれてきた人づくりの道を、自粛の時代にどう生かすかが、宗教には問われている。
 時代や人々が宗教を育てる側面もあり、それに適応した宗教が今日も存続しているのである。それゆえ、今の時代に一人ひとりを成長させるために何ができるかを問うことで、宗教自身も変わることが求められている。

次の記事

田植え