『走れメロス』太宰 治(1909〜48年)

文学でたどる日本の近現代(4)
在米文芸評論家 伊藤武司

 質の高い豊かで幸福な人間生活を送るためには様々な条件をそろえなければならない。社会的位置、収入、生活環境など色々と思いつくが、より内的な要件は、家族の絆や、対社会における人間関係の構築であり、個人の良好な環境作りが要求される。
 今、現代人が直面している深刻な社会問題の一つに孤独死がある。個人主義が行き過ぎ孤立してしまうことほど不幸なことはない。その中で、良き友とのめぐり合いがあれば、充実した人生が確かなものとなる。苦しい時に、信頼でき頼りがいのある友の存在はなにものにも代えがたい宝なのである。しかしその反面、友から裏切られたときほど、悔しく恨めしいことはないだろう。はたして、人間相互の信頼関係はどこまで築き得ることが可能だろうか。こうした問題にヒントを与えてくれる小説を太宰治は書き上げた。
 『走れメロス』は古代ローマ世界を背景にした、メルヘンチックな友情の物語である。小品であるにもかかわらず、太宰の愛読者の人気を集めている。真の友情ははたして可能であろうか。それを主要な題材に、裏切りの一コマをはさみこんで、人間心理の実相や本質をとらえた感動のストーリーである。
 小説の主人公はメロス、石工のセリヌンティウスは親友、そしてシラクスの王のディオニスの3人が主要な登場人物である。
 ある日のこと、メロスは近々執り行われる妹の婚礼の準備のために、片田舎からはるばると王の住む市中へと出向いた。両親のいない2人だけの生活で、親代わりに16歳の妹の面倒をみていたのがメロスで、彼もまた一人者なのである。めぼしい財産もなく、宝といえば妹と羊くらい。
 ところが王の役人に逮捕されてしまう。発端は、人間不信におちいっている王に、信ずることのできるものがあると言い張ったことで怒りをかったのである。
 王は、2年ほど前とはうって変わって人間不信の虜となり、妻や世継ぎや妹や側近の大臣を次々と誅殺する悪王になり下がっていた。誰も信じられない孤独な王になってしまったのである。王はおそらく、嘘つきな人間どもを殺すことに陰湿で病的な愉悦感をもっていたであろう。
 対照的に村に住むメロスは、お人よしまるだしののんきな善人である。しかし、彼は人一倍邪悪なものや悪を嫌う性格で、勇気のある男でもあった。
 やがて、猜疑心と不信感の塊の悪王の前に連れ出されると、こともあろうか、王に向かい悪行を諫めてしまう。もちろん、王の逆鱗をかい、彼は死刑判決を宣告された。死を恐れないメロスも一つだけ、妹の結婚のことが心残りであった。そこで妹の婚礼が終わるまで死刑を待ってほしいと哀願し、彼の身代わりをさしだす裁断となった。
 死刑を免れる唯一の道は、友との間に真の友情のあることを証明することである。この賭けは、もともと王の遊び心から決まったことで、王は、メロスが人質を見捨てて逃げ出すだろうと高をくくっていたのであった。つまり、メロスが逃亡しても、身代わりを殺すのも一興という下心が王にはあった。
 世を渡るうえで、ほどほどの正直さと嘘を織り交ぜるのが、普通一般でいうところの人生である。王はおそらく、人間とはそうした打算的な生き方をすると決めつけ、人びとを断罪し殺してきたに相違ない。こうして人間の信頼や友情を拒絶する王と、それを覆そうとするメロスとの間に、真と不信、本物と偽物を見極める命を懸けた対決がスタートする。
 先に主要登場人物は3人としたが、図式的に示せば悪と善との相克、人間の内面の確執といえよう。
 メロスには3日目の日没までに戻る猶予が与えられた。それに反すれば親友は確実に殺されてしまう。メロスは、王城から夜を徹して歩き続け、なんとか妹の婚礼式を終え、早朝、村を出ると、大雨の降りしきる中、山野、森林をかけぬけ王城を一目散にめざした。
 ところが洪水で橋が流され、濁流をなんとか泳ぎ渡っても、彼の前途にはいくつもの障害が立ちふさがる。けれども、友との「愛と誠の力」を裏切ることなど想像もできないのである。
 メロスの心理に微妙な変化が生じたのは、こん棒をもった山賊たちに襲われてからである。どうやら、賊は王の放った刺客のようで、メロスは王の卑劣を憎んだ。死に物狂いの格闘の末、衣服を奪われ体力を消耗しきってしまった。灼熱の太陽が体をジリジリと照り付ける。
 その時、悪王と同じようなやましい思いが彼の心をかすめたのである。もう動けない。友を見殺しにして、自分だけ一人助かればよいではないかという迷い、囁きの声であった。この誘惑の声に従い、逃亡すれば悪王の、否、悪魔の思うつぼなのである。
 正直のところ、メロスには妹の婚礼の祝宴のとき、余りの嬉しさに友との約束を忘れそうになったことがあった。しかし逡巡の末、誘惑を打ち払い、約束を果たすため再び走りはじめた。「私は信じられている。私の命なぞは、問題ではない。…私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!メロス」と。
 ひたすらに走りに走りつつ、いつのまにやら、友を助けることや約束以上に、「もっと恐ろしく大きいものの為に」死力をつくして走っている己に気づくのであった。
 みぐるみを奪われ、口から血をながし、裸同然、狂人のようなメロスが夕闇迫る中、王宮の広場に走りこんだ。そのとき、まさに群衆の取り囲む中で友の磔の刑が執行されようとしていた。危機一髪で間に合ったのだ。
 真の友情は、その核に愛の心性を備えている。そして真の友情といえるためには、その性情には義務という感覚はない。本性からの心情を核とした自然な心の発露なのである。
 縄をとかれた友に、目に涙を浮かべたメロスが、彼を見捨てようと考えたことがあったのを告白したところ、同じ思いが友にもあったことを聞かされ、互いに許し、泣きながら抱き合った。群衆の中からもすすり泣きの声がもれてきた。まじまじと見つめていた悪王も、2人の男の真の友情の美しさに降参した格好である。なんと、王自ら彼らの仲間に入りたいと請うてきたのである。
 この短編の魅力は、友情や信頼や離反といった、人生上でいくらでも起こりうる日常を切り取って、一つの小品に一気に盛り込んだことにある。
 命を懸けてまで、人との約束を守りきれるかという命題がストーリーの中心テーマである。そしてこの設問は、もしも自分の身に同じ運命がふりかかったらと考えると、他人事と素通りできないことがわかる。メロスと一体化した自己が、思い悩み、苦悩し、恐怖や弱さと戦い、そしてなんとか勇気を奮い立たせて、親友としての誇りを証明しようとしないだろうか。それが死が確実に迫っている友に対してとるべき人としての道であるはずだからだ。
 現代のような不信と連帯感の薄い時代にあっても、損得なしに突っ走らなければならない場合が、時としてあるのではないかと己自身に問いかけたくもなる。
 ところで、メロスが走りながら感じた、「もっと恐ろしく大きいものの為に」とは、一体どういう意味だろうか。
 太宰は作品『駆込み訴え』等にみられるように、聖書をよく読んでいた。そうした記載は、数々の作品に神やキリスト教や聖書的な言葉がでてくるし、晩年の代表作『人間失格』にも散見できる。
 「大きいものの為」の答えとして言えることは、人間に尊厳性や高貴さを付与した無窮なる造物主を暗示しているということである。つまり、メロスは、神の大いなる意志を体全体に浴びながら走りぬいたのである。太宰は、この小説で友情の究極の姿を演出することで、真の友情や人を愛することの真実性を見とどけたい、という期待をもっていたといえる。
 その点をどう表現できるかに主眼をおき、スピード感と緊迫感が交差する爽快な物語を一気に完成させたのである。
 太宰治は、繊細な感受性と、卓越した文才に恵まれた作家である。いくつもの中編や長編の傑作小説を書きあげ、『ヴィヨンの妻』『斜陽』『人間失格』などがある。
 しかも『走れメロス』の例のように、短編物の名手でもあった。しかし、この作品を太宰の代表作とするのはどうしても無理で、重量感の乏しいのはいなめない。それは作者の非ではないが。
 この小説のもつ本当の値打ちは、デカダン的生を文字通りに生きた作家が書き上げているという事実にある。
 太宰は二つの心理の中に生きた人である。明るさと哀調を帯びた暗さという意味であり、年譜によれば、当作品や『富嶽百景』を書いたころが、たとえ一時的であったにしろ、幸福感にひたることのできた明るい世界だったと推察される。彼は結婚していた。惜しまれることは、厭世的な想いや自殺願望が棲みつくようになってからである。
 薬物中毒や自殺未遂をくりかえし、乱れた女性関係、最後は恋人との溺死である。とかく暗い色調で染められた生涯には、生きるために必要な最小の感覚や一般的良識が充分でなかった。換言すれば、実生活にうまく適応しえない脆弱さがあったといえよう。健康も元来丈夫とはいえず、頽廃的かつ不確かな身の振り方をしてしまった。彼にはそうした欠点が常につきまとい、いきおい己に対しては、強い罪障感を抱くことになった。
 それでも本心では、心の支えとなりうる愛や信頼や希望を捨てきれずにいる自己があって、『走れメロス』には彼の本音や秘められた願望が明白に語られている。

前の記事

殉教者の精神

次の記事

里山クラブ