栄西(2)/出家・修行・布教の足跡

岡山宗教散歩(9)
郷土史研究家 山田良三

 元亨釈書などによると、栄西は11歳の時に安養寺の住職静心によって出家得度したと伝えられています。栄西生誕地地元有志の藤井直樹さんから頂いた資料には「栄西は11歳の時に安養寺・静心和尚に師事す」と書かれています。引用元の『栄西(ようさい)千光祖師の生涯』(宮脇隆平著、建仁寺発行)には「当時は本地垂迹、つまり神と仏は表裏一体であるという考えが支配していた時代で、彼の父親も天台宗寺門派の総本山・三井寺に学び、天台の僧侶静心と行を共にしたことがある。栄西が小僧として仕えた安養寺の和尚は、父親と三井寺で縁があった静心その人であった。栄西が比叡山に登り、天台宗の僧侶として仏道を歩み始めるまでの軌道は宿命的に敷かれていた」とあります。
 岡山には栄西が得度したとされる安養寺が二つあります。岡山市北区日近にある安養寺は臨済宗建仁寺派の寺院で、栄西が渡宋する前に自ら刻んだ像を納めた堂や自らの姿を映したという姿見の井戸があります。先日、吉備歴史探訪会の狩谷代表とともに再訪し、中井豊林住職から話を伺いました。先住時代には盛んだった栄西禅師を顕彰する茶会などは行っておらず、「栄西禅師得度の寺」との看板はありますが、今はひっそりと修道の道場という佇まいでした。
 その後、栄西が修行したという日応寺(岡山市北区日応寺)と金山寺(北区金山寺)を訪問しました。日応寺は養老2年(718)の創建の備前の名刹で、栄西が長く滞在していました。元は三論宗の寺で、次に天台宗の勅命山日応寺と称し、永禄2年(1559)金川城主松田氏により日蓮宗に強制改宗・改称させられました。明治31年に元の寺名に復したものの宗旨は今も日蓮宗です。
 金山寺は、天平勝宝元年(749)に報恩大師が孝謙天皇の勅命により開創。備前48カ寺の根本道場となっていました。元は法相宗で、栄西が修行した寺の一つ。栄西は護摩堂などを建て宗旨も天台に改めました。金山寺は金川城主による日蓮宗への改宗には応じなかったため堂宇はすべて焼き払われてしまいました。
 その後、宇喜多直家の援助で本堂・護摩堂が再建されました。ところが、国の重文に指定されていた本堂は、平成24年の失火で全焼、本尊の木造阿弥陀如来像(県重文)も焼失してしまいました。江戸期には岡山藩主池田光政により備前国天台宗総管とされ、仁王門もこの時寄進されています。この仁王門も荒廃が進み、本堂も仮本堂のままでした。一時は、備前の中心的な道場として名をはせた寺院だけに残念です。
 倉敷市浅原の安養寺は、報恩大師によって延暦元年(782)に開基、浅原千坊の中院として、室町時代中期の13世紀ごろには浅原の谷一帯に「浅原寺」と称する寺院が立ち並んでいたと伝わります。今は真言宗で、毘沙門天が守り神の神仏混交の寺院です。寺宝に国重文の木造毘沙門天立像と木造吉祥天立像(いずれも平安時代の作)があります。また、裏山の福山から出土した経塚出土品(平安時代)の瓦経208枚や仏画を刻んだ瓦5枚なども重文の指定を受け、宝物殿に納められています。
 当地は吉備の南端に位置し、すぐ近くまで吉備の穴海の海岸が迫っていました。裏山は、「福山合戦」で有名な福山で、その名は徐福に由来するとのこと。古代から吉備の中心道場で、毘沙門天が守護神。かつては西国一の膨大な数の毘沙門天像があったそうです。成願堂(宝物殿)の入り口には栄西禅師像があり、境内には栄西禅師出家850年を記念した少年栄西像も建てられています。成願堂の脇には安養寺開祖の恵心僧都源信像とともに遊行聖人一遍像もあり、一遍上人も当寺を訪れたことがわかります。
 栄西は13歳(あるいは14歳)の時に叡山に登り授戒して栄西と号し、その後、叡山と備中を往還し、17歳の時に師の静心が没すると、遺言で法兄千命に師事し、「虚空蔵菩薩求聞持法」を受けました。21歳の頃、入宋の志を抱き、23歳の頃、金山寺遍照院に住すとともに日応寺で三昧耶行を修法し、27歳の頃、伯耆の大山寺の基好師のもとで両部灌頂を受けました。仁安2年(1167)9月に叡山に登り、12月に帰郷、父母の許から九州に赴き、宇佐八幡と阿蘇山で入宋渡海を祈願、翌年4月に博多津より商船で渡宋したと伝えられています。
 宋の明州に到着した栄西は四明山に登り、丹丘で重源と出会い、一緒に天台山に登り、その後、万年寺、明州の阿育王山にも登り、重源とともに帰国したと伝えられています。重源との出会いを否定する研究もありますが、その後の重源と栄西の親密な関係や時代的背景を考えると、2人の出会いは間違いないと思います。
 帰国後、栄西は叡山に登り、天台座主明雲に天台新章疏30余部60巻を呈しています。その後、備前・備中を巡錫し、金山寺(遍照院)における灌頂、備中清和寺(現井原市)の創建、日応寺での灌頂の記録が残っています。35歳の時、筑前今津の誓願寺に迎えられ、文治3年(1187)47歳での二度目の入宋まで、誓願寺を拠点に活動を続けました。
 当時、都では源平の争いが続いていました。備中は平家の勢力圏でしたが、寿永3年(1184)に、児島との藤戸と呼ばれる海峡での「藤戸の合戦」で平家が破れ、その後は屋島から壇ノ浦へと平家は敗走します。今津の誓願寺は平家による日宋貿易の拠点で、ある意味、栄西も平家の庇護下にありました。平家の滅亡によって誓願寺の存立も危うくなったのが、二度目の入宋の理由の一つなのかもしれません。
(2019年9月10日付755号掲載)