中国の宗教弾圧と米国の宗教的空白

宗教で読み解く世界情勢(37)
平和政策研究所研究コーディネーター 小笠原員利

 米国の中国批判が厳しさを増している。ハドソン研究所でのペンス副大統領の講演では、批判の矛先が経済、軍事面の脅威のみならず、国内の人権状況にも向けられ「新冷戦のはじまり」とも評された。
 米議会でも、中国の宗教迫害を非難する超党派の動きが始まった。なかでもチャック・グラスリー上院司法委員長(共和党)は、政治雑誌に寄稿し、米国の建国精神にのっとって、宗教の自由擁護のために中国にあらゆる圧力をかけるべきだと主張した。
 米国が宗教の自由にこだわるのは、その重要性を他のどの国よりも深く認識しているからだ。初代大統領ジョージ・ワシントンが「宗教と道徳は国の柱だ」と述べたように、キリスト教への敬虔な信仰と、それによって涵養された道徳性が、世界でも稀にみる政治的に安定した社会と、目を見張るような経済発展の基盤となった。
 実は中国でも、発展の背景に宗教がある。鄧小平以降の改革・開放路線は、限定的だが宗教にも活躍の余地を与え、経済発展の陰で生まれた人々の精神的空白を埋めることとなった。地下教会の信者ですら中国発展の敵ではなく、勤勉でモラルがあり、税金をまじめに納める信者は政府にとってもありがたい存在だった。彼らは学校や病院を建設し、地方で貧困にあえぐ人々の不満を吸収した。習政権の過酷な宗教政策は、そうした宗教の活力を奪ってしまい、やがて自国の首を絞めることになるだろう。
 ただし、中国批判を行うペンスやグラスリーは、自国内における精神的、倫理的な真空状態にも目を向けなければならない。国民の大多数がキリスト教徒を自認する米国だが、バルナ・グループなどが実施した調査では、米国人の四分の三以上が、ほとんど宗教的、霊的会話をしないと判明した。
 人々は、神や宗教について語り合うことをしなくなった。その理由は「緊張を生み、論争になってしまう」「宗教があまりに政治的になった」などというものだ。さらには怪しいと思われたり、過激な人と見られることを恐れる人もいる。米国では政府が宗教を弾圧することはないが、目に見えない力が、人々から宗教的な会話を奪っているのだ。
 その結果、何がもたらされているのだろうか。宗教が敬遠され、唯物的、世俗的な傾向が強まる中で、宗教によって育まれてきた良質な文化自体が失われつつある。グーグルを利用して、約五百年間の出版物やWeb上の記事における単語使用の変化を探ってみると、二十世紀に入り、多くの宗教的、精神的な単語の使用が激減している。「忍耐」「謙遜」「感謝」など宗教的な徳目に関する言葉の使用は実に50~60%も減少した。その一方で、より頻繁に使用されるようになったのは、個人主義に関連する言葉や、「左翼、右翼」「優先順位」「経済的公正」などの政治・経済的な言語だ。
 今、「米国社会の分断」「民主主義の限界」がさかんに喧伝されているが、その一因は、宗教性の衰退にもあるだろう。右左を問わず、人々は自らの権利や政治的信念ばかりを声高に主張し、相手を非難、中傷することに明け暮れている。押し寄せる情報を湯水のように消費し、ツイッターやインスタグラムで自己顕示と情報発信にいそしむ一方、瞑想や沈黙の価値は忘れ去られ、自らの不足を悔い改めたり、不遇な状況を受け入れ感謝するなど、人間的な成熟をもたらす宗教的実践に時間や意識を割く人はほとんどいない。
 世界のニュースを眺めても、怒りや不満、不安や葛藤を抱え、互いに非難しあい、蔑みあう人々の姿があふれている。そこに欠けているのは、まさしく忍耐、柔和、謙遜、慎み、感謝、尊敬といった宗教由来の美徳の数々だ。なぜ、宗教の自由を守らなければならないのか。それは宗教によって育まれる道徳的な人間性こそが、あらゆる社会の経済的発展と政治的安定の基となるからだ。
 中国における宗教迫害を非難する西側先進国の指導者たちは、同時に、自らの国と社会をむしばむ宗教性の衰退にも向き合う必要がある。当然、宗教指導者自身にも役割が期待されるだろう。右や左といった水平軸の対立状況は、宗教が提供する垂直軸の視点によってしか克服できないからだ。時には、それぞれの主張の偏りを俯瞰できるほどの高みにのぼり、また時には、最も深く、低い場所まで下りてゆきながら、両者の訴えの根底にある深い痛みや事情に寄り添うことも必要だろう。混沌とした現代社会は、まさに、宗教者がもたらす救いを待ち望んでいる。
(2018年11月10日付745号掲載)