法然(1)/日本仏教の宗教改革者
岡山宗教散歩(1)
郷土史研究家 山田良三
古代の吉備国~現在の岡山県は、著名な宗教人を数多く輩出しています。浄土宗宗祖の法然、禅宗では臨済宗開祖の栄西や近江に永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)、水墨画家として知られる雪舟、教派神道では黒住教開祖の黒住宗忠や金光教開祖の金光大神(こんこうだいじん)などです。明治になると、救世軍の山室軍平や岡山孤児院の創立者石井十次(じゅうじ)などキリスト教に共鳴した人々の中から福祉や教育に貢献した人々が現れます。
宗教と深くかかわった人物に和気清麻呂がいます。弓削道鏡にかかわる宇佐神宮神託事件が有名で、この時の心境を詠んだとされる真筆の「我独慙天地」(我独り天地にはず)という言葉は清麻呂の宗教性の高さを顕しています。清麻呂は殖産と神祇に優れ、平安京造営に深くかかわっていた渡来人の秦氏と関係が深く、また和気の一族は平安仏教の礎を築いた最澄や空海を自らの氏寺であった神護寺に招くなどして支援、仏教の興隆に貢献しています。
徳川家康と浄土宗
戦国時代の武将・徳川家康が戦に掲げた旗印が「厭離穢土欣求浄土」です。徳川家のルーツは三河の庄屋・松平太郎左衛門重信の婿養子になった時宗の遊行僧・徳阿弥で、還俗して松平親氏と名乗ったのが始まりとされます。四代松平親忠が増上寺より勢誉愚底(せいよぐてい)上人を招いて建てたのが、岡崎にある松平家の菩提寺、大樹寺です。桶狭間の戦いで今川方だった家康(当時は松平元康)は、今川義元が討死にすると、大樹寺に逃れ、先祖の墓前で切腹しようとしました。それを住職の登誉(とうよ)上人が「厭離穢土欣求浄土」の字を示し、「天下の父母となり、万民の苦しみをなくしなさい」と諭したのです。以来、徳川家康は「厭離穢土欣求浄土」を旗印に戦国の世を戦い抜き、戦国の世を終わらせました。
徳川治世の二百六十五年は、戦乱のない世界史にも類例のない平和な時代となりました。庶民の暮らしは安定し、世界から注目された江戸文化を花開かせたのです。大樹寺住職が諭した「浄土」の教えがそうさせたと言えるでしょう。
江戸時代、浄土宗は徳川家に保護され、法然の墓所である京都・東山の知恩院には秀忠が寄進した三門や家光が寄進した御影堂などがあり、いずれも国宝です。江戸の増上寺は徳川将軍家の菩提寺となりました。
法然上人五百年遠忌が行われた正徳元年(一七一一)に天皇より円光大師の大師号が謚されて以降、五十年ごとに加謚され、東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師、そして平成二十三年には今上陛下より法爾大師の大師号が加謚されました。法然の浄土の教えが皇武ともに尊重されたが故でしょう。
専修念仏を説く
浄土宗を興した法然(幼名勢至丸)は平安時代末の長承二年(一一三三)、美作国(現在の岡山県東北部)に生まれました。比叡山で天台の教学を学び、承安五年(一一七五)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説くようになります。その教えは分かりやすく、平安末期の戦乱の続く乱世の時代に人々の心を捉え、公家や武士、一般庶民に至るまで多くの信徒を集めるようになります。浄土宗の流れをくむ浄土真宗や時宗などを合わせれば、今では信者千九百万人に及ぶ日本最大の宗派となっています。
私の生家は岡山県南の児島(現倉敷市児島)で、真言宗が盛んでした。法然の名は学校の歴史で知っているくらいで、進学した鳥取大学に往来する途上、津山線誕生寺駅で乗り降りする人々を見ながら、「ここが法然上人の誕生地なんだ」と思うくらいでした。
その後、関東に職を得て七年滞在した栃木県や十年暮らした東北で、山形の山寺や出羽三山など各地の宗教家と接する機会が多くあり、それがきっかけで日本の宗教史に関心を持つようになりました。日本の宗教史を学んでみると、生まれ故郷の岡山が多くの宗教人を輩出していることに驚き、故郷に帰ったらその史跡を訪ねてみたいという思いに駆られました。
平成三年に仙台から岡山にUターンしたころ、地元紙山陽新聞に「ゆかりの地を訪ねて」という郷土の偉人の連載があったので、記事を参考に県内外の史跡を訪ねました。法然上人については誕生寺や菩提寺、両親が祈願した本山寺、出身である秦氏ゆかりの錦織の地、比叡山の黒谷、大谷の知恩院、長岡京市の光明寺などにも足を延ばしました。
法然の生まれた美作国は、古代吉備国が飛鳥浄原令で備前、備中、備後に分けられ、さらに大宝律令で備前から分けられた現在の岡山県東北部です。その美作の中心都市が現在の津山市です。津山には江戸初期に森蘭丸の弟の森忠政が入封し、森家が改易の後、松平家(結城)が入封します。津山藩は学問が盛んで進取の気性に富み、幕末から明治にかけては宇田川玄随や箕作阮甫など多くの洋学者を輩出しています。
津山で美作聖人と呼ばれた森本慶三は、明治に津山銀行の頭取を務めるなど地元の有力者でした。森本は東京遊学中に内村鑑三と出会いその教えに共鳴、学んだキリスト教理念によって津山の教育や福祉事業に貢献しました。
森本が私財を投じて建てたのが津山城址麓にある津山基督教図書館(現森本慶三記念館)です。その開館式に招かれた内村は、地元の人たちに次のように語っています。「君たちは、この図書館でイエス・キリストについて学ぶことは勿論だが、ルターの宗教改革に先立つこと三百年、仏教の宗教改革をなし遂げた美作を代表する聖人法然について学ぶことが大切だ!」。法然という人物は宗派を超え、時代を超えて人々が高く評価し尊敬される、日本の宗教史に残る宗教改革者だと高く評価していたのです。
(2018年11月10日付745号掲載)