最初のアルメニアと最後のリトアニア

キリスト教で読み解くヨーロッパ史(2)
宗教研究家 橋本雄

キリスト教を最初に国教化
 アルメニアの首都エレバンからは、ノアの洪水で有名なアララト山の雄大な姿を望むことができる。「よく見える」と書きたいが、雲に覆われていることが多いので、旅行者が雄大な全景を見ることができれば幸運であるという。富士山と同じ美しい稜線を持つ双峰(五一三七メートルと三八九六メートル)のアララト山は、周辺に大きな山がない分より高く、天を衝くように見える。
 旧約聖書にあるノアの洪水はこの山を覆ったということだが、アララト山を見ると、そこまで水が来たとは信じがたい。おそらく聖書筆記者は、その当時知り得た最も高い山を持ち出して、洪水の凄まじさを説明したかったのであろう。現在、アララト山はトルコ領に属し、登ることはできない。ノアの子孫という誇りを持つアルメニア人には「民族の象徴を失った」という喪失感がある。
 アルメニア人が誇りとするもう一つは、三〇一年にキリスト教を最初に国教化したことである。三九二年に、ローマ帝国でテオドシウス帝がキリスト教を国教化する九十年も前のことである。なぜこんなに早く、アルメニアがキリスト教を国教化したのだろうか?
 アルメニアにキリスト教が伝播してきたのは二世紀頃と言われるが、三世紀の後半、宣教にきたグレゴリウスを王は逮捕し、死ぬことを期待して毒ヘビの住む大きな穴に放置した。しかし十三年後に病気になった王を、穴の中で生き延びていたグレゴリオスのみが奇跡的に治癒したことで王が改宗し、やがてキリスト教は国教化したという伝説である。その間グレゴリオスは、近隣の老婆(あるいは寡婦)が毎日届けるパンを食べ(もちろんヘビにも与え)、生き残ったというのである。
 宗教には伝説が必ずあるもので、信仰が深ければ伝説はより大きくなるのかもしれない。現在はその穴の場所に修道院が建ち、穴の中に降りることができる。降りてみるとけっこう深かった。この修道院からのアララト山の眺めが素晴らしい。グレゴリウスもこの景色を見たのだろうか?
 その後、アルメニア・キリスト教会はカトリックでもなく、ギリシャ正教の流れに入ることもなく、四五一年のカルケドン会議で異端とされた神学の立場を貫いている。
西欧で最後に受容
 バルチック海に面するリトアニアのキリスト教受容も興味深いものがある。リトアニアは、第二次大戦中にナチスの迫害を逃れるユダヤ人の生命を救った外交官・杉原千畝さんの件で、日本でも有名である。そのリトアニアはキリスト教を受け入れたヨーロッパ最後の国で、アルメニアが国教化してから千年以上も後のことである。
 伝統的民族信仰に固まるリトアニアでは、キリスト教の宣教は困難を極めたと伝えられる。首都ビリニスから見える丘の上に立っている三本の巨大な十字架は、その地で殉教した宣教師を記念するものであるという。
 更に、首都から一二キロのシャウレイには、十字架の丘「クリージュ・カァルナス」がある。その歴史は長くはないのが、幾万の人々が持って来た無数の十字架に覆われたこの丘は、世界文化遺産にも登録されている。一九九三年には当時のローマ教皇もこの地を訪ね、「希望と平和、そして愛と犠牲の地」と述べた巡礼の地である。
 一説には五万本以上の十字架があるというが、現地の人の話では二十万を超えるという。実際に行ってみると、五万ははるかに超えているように思える。今も増え続けているし、数えた人がいないのではないだろうか。
 今やリトアニアは、プロテスタントの多い北欧周辺の中で、有力なカトリック国となっている。しかし、キリスト教の受容をめぐり伝わる歴史的背景は極めて打算的なものであったとも言える。
 リトアニアの人々は長年にわたり伝統的な民族信仰を貫いてきたが、リトアニア大公は周辺の国々やドイツ騎士団等からの軍事的圧力に耐えかねていた。そして、リトアニア大公ヨはローマ・カトリックへの改宗を条件に、一三八六年に洗礼を受け、ポーランド王女と結婚した。ポーランド・リトアニア連合王国、新しいカトリック国の誕生である。
 このことでドイツ騎士団はリトアニア攻撃の名目を失った。王は「信仰」を受け入れたのではなく「軍事的圧力」を弱めたかったのであろう。しかし、動機はどうであれ、今やローマ・カトリックは、共産主義や周辺諸国の圧力に耐えてきた国民の心の拠り所になっている。
 首都ビリニスには、奇跡を起こすと信じられ、多くの信仰を集める聖母マリアのイコンがあり、今ではポーランドなどのカトリックの国々からからの多くの巡礼者を迎えている。王は「打算」で信仰を受け入れたとしても、民衆はその「信仰」を受け入れたのである。リトアニアの人々は、キリストへの信仰で多くの困難を乗り越えてきた。そして、一九九〇年にソ連からの独立を宣言し、ソ連邦崩壊の最初の動きをしたのはリトアニアである。
 リトアニアとアルメニアは、キリスト教を受容した王の動機、即ち奇跡的治癒か政治的打算かはどうであれ、信仰が民衆に根付いた国々である。アルメニアとリトアニアに共通するのは、両国の人々が周辺の強大国からの圧力に苦しんでいたことである。コーカサス地域の複雑さと歴史は想像を超えるものがあり、大国の中で揺られるリトアニアの歴史も悲しいものが多い。そのような人々の苦しみが、キリストの十字架の苦難と同期したのであろう。最初と最後の国だが何か似ている。
(2018年10月10日付744号)